記事タイトル:新羅三郎義光以来参拾七代

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お名前: しばい   
 武田勝頼が自刃した為、徳川家康は穴山梅穴の娘との
間に出来た五男信吉を武田信吉として、鎌倉時代から有名
な下総小金城主として封じたのですが、残念ながら、母子
共に病死した為、プランは実現しませんでした。
 宇治川の合戦で有名な佐々木高綱、梶原影季の生(接
旧字は口)月(いけずき)摺墨を始めとして、徳川吉宗の
時代には、ペルシャ産、オランダ産の馬も導入され、小金には
いまも、馬塚やオランダ観音として遺蹟ものこされています。
 甲陽軍鑑にも、武田氏が小金産馬を使っていたことが、
記されていますが、鎌倉時代から続く馬の産地でした。
 通常は、里馬といい(特にいいのは東北産)ですが、野馬追い
という鹿がりに近い風習があったらしく、粗食、寒冷に強い
馬を野生化した馬を役として住民が集め販売すると言う事が
行われていました。健康ならば、一貫(1/4両)ほど、
故障場でも200文から300文で販売されていたようです。
 失明、腰砕けという傷を持つうまも、馬肥やしという馬糞を
取ると称して引き取る、農民が多かったそうです。その為に、
2〜3年の小口融資も活発に行われたということです。武田氏
というと、騎馬を思い出しますが、産地は甲州に限ったことでは
なく、甲州牧月見里(やまなし)家も小金牧には関係の深い家
だそうです。
 新羅三郎以来というときは、単に、家系の事を指しているわけでは
ないようです。

[2002年10月20日 9時11分52秒]

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