記事タイトル:森蘭丸は、実は乱丸?

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お名前: ミッチー   
復刊ドットコム] 「森蘭丸 〜乱世を駆け抜けた青春 〜」への投票のお願い

はじめまして。私は大学2年(歴史学科)のミッチーと申します。歴史が大好きで
歴 史小説をよく読むのですが、友達から聞いた「森蘭丸〜乱世を駆け抜けた青
春〜」の本を読んでみたいと思いました。(もちろん営利目的などではありません
ので・・・。)
「森蘭丸〜乱世を駆け抜けた青春〜」の本がPHP文庫から1998年に出版されて
い ますが、現在、再版される予定がなく、購入することができません。
この本の内容は、
(YAHOO!ショッピング(取寄不可)からの引用です。)
> 織田信長の寵愛を一身に集めた小姓・森蘭丸。しかし、彼の母
> は、信長の宿敵である本願寺に、深く信仰を寄せる。主君への忠
> 誠と母子の絆の間で葛藤する蘭丸。そんな中で彼は、母の信仰と
> 相容れぬキリシタンの娘を愛してしまった―。複雑な人間関係の
> 綾に悩みながらも、その秀でた才知と克己心で、決して挫けず青
> 春を燃やし続けた乱世の若者の姿を描く、傑作長編。
です。もし、賛同していただけるようなら、よろしければ、こちらの本への再版
を 求める投票をよろしくお願いしま す。
「復刊ドットコム」< http://www.fukkan.com/ > は、
皆さんの投票により絶版書籍を復刊するサービスを行なっています。
「森蘭丸〜乱世を駆け抜けた青春〜」への復活の投票は
http://www.fukkan.com/vote.php3?no=9656
こちらからよろしくお願いします。 また、このような内容が不適切な場合には、お
手数をおかけしますが、削除の方、
よろしくお願いします。

[2002年10月12日 23時19分30秒]

お名前: しばい   
 どう呼ばれていたのか不思議ですね。
「乱」というのが一番可能性高いんじゃないでしょうか。
 また、丹羽長秀は、攝津で船団を含む四国遠征準備中で、
 一報を聞き、森口まで来たところで、変の状況を把握し
 豊臣秀吉との連携を決断したらしいですね。ただ、記録
 にある、森口と現在の守口とは、多少ちがいらしいですね。
  後年にあたりますが、朝鮮征伐を決心した時には、
 水軍と関係から、肥前あたりの松浦党が、秀吉と別れ沙也可
 となったという、政治学者の白石一朗氏の説や、豊臣氏と
 対立した一揆が、朝鮮に渡ったという説、このあたりが、
 最近では、有力となってきています。
  どちらにしても、有力側近が「乱」ですから、織田政権は、
 天下布武以降は、考えがなかったのではなかったのでは、
 ないでしょうか。一揆とみるか、在野の政治勢力とみるかは
 難しいのが、現状です。一時、加藤清正の組下ではと言われ
 ていましたが、日本離脱時には、すでに、三千以上の兵力を
 有する集団だったようで、加藤家中の参加は、誠にすくなかった
 らしいというのが、資料から解ってきたそうです。
   では、、、
    しばい  (T_T):彡

[2002年6月8日 15時32分10秒]

お名前: しばい   
  ぎばちゃんが、ついに未来の予言をやったので(大河ドラマの中ですが)
根津甚八以来なので、お答えしましょう〜〜〜。
 森家、赤穂藩の浅野家を継いだ由緒ある家系の人が、森蘭丸、または、
森乱という五万石の当時大名です。
 小姓というと、男色の餌食というイメージがありますが、織田信長の小姓と
しては、第三世代筆頭の出世頭です。
 後代、賎ヶ岳の七本槍という世代よりも、評価は大夫高く、それだけの
才能もしめしています。ただ、明智光秀の一万人という兵力に圧倒され、
五万石の大名も形無しという状態です。織田家の軍制としては、五万石
ともなれば、4800人は動員し、普段は、近習として使えていたのですから
四国方面に動員されていた、神戸家の手勢も観軍できなければなりません、
いかに、明智光秀が、早く京都を予想外に落としたという事でしょう。
 事実としては、丹羽長英は、父子共に、秀吉に身を預け、身代を、
一代限りとしてしまいました。信長の一大、痛恨事でしょう、情報が早くても
丹羽家と仲がよくても、おめおめと長男、信忠共に、戦死しなくてもすみましたから、
付け加えるなら、二条城にいた、長男信忠は、半日かけて、親王天皇を無事に、
伏見方面に逃がす工作には成功し合戦におよんでいますからね。

[2001年9月11日 22時8分14秒]

お名前: KENMOTSU    URL
森蘭丸は織田信長の小姓として有名ですが、実際に信長に仕えたのは本能寺の変までの三年間くらいで、彼は「らんちよ」という名で通っており、すでに元服していたので成利といったほうが正確なのです。彼は織田家いがいではあまり有名ではないらしくルイス・フロイスの「日本史」にはその記述は見当たりません。彼を有名になったのは江戸時代になって創作された部分が大きいので、彼が信長に重用されたから、時の権力を動かせられるほどとはいかなかったようです。
織田信長の男色の相手だったと考えると、まだ元服していない、年子の弟・坊丸・力丸ほうがイメージ的には適当かもしれません。

[2000年12月31日 16時38分56秒]

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