記事タイトル:世界の名前

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お名前: 曲学の徒   URL
卑弥呼の別名

 京都府宮津市『籠(この)神社』に、『海部(あまべ)氏勘注系図』と呼ばれる国宝がある。
この系図に、初代彦火明から数えて七代目、すなわち六世孫建田勢命(たけだせのみこと)と並べて、尊大な名を持つ一人の女性を記す。

宇那比姫命(うなびひめのみこと)、天造日女命(あめつくるひめみこと)、大倭姫(おおやまとひめ)、竹野姫(たけのひめ)、大海靈姫命(おおあまのひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)である。

最初に目に付くのは、大倭姫である。
地方豪族の姫の名にしては、あまりにも尊大である。
興味深いのは、大海靈姫命の、靈(ひるめ)である。
ご存知のように『魏志倭人伝』は、卑弥呼が『鬼道を事とし』として、卑弥呼の巫女(みこ)的要素をうかがわせる。
この名もまた靈姫(ひるめひめ)すなわち巫女姫(みこひめ)なのである。
最後極めつけは日女命(ひめみこと)である。
魏の使者が漢字で音を表記すれば、卑弥呼としても不思議はない。

天造日女命、大倭姫、大海靈姫ときて、日女命とくれば、この人は間違いなく卑弥呼でしょう。あなたはどう思われますか。

この国宝は真っ赤な偽系図、それとも史実の一端を伝えるのか。あなたのご意見をお聞かせください。




[2005年02月14日09時33分]
お名前: マック
そそ、苗字の変遷としては
豊臣秀吉の例があります。
氏姓
あれれ、混乱している。
下の文章は削除したほうが良いような
気がする。
消そう・・・・・・、しまった出来ない。

[2004年12月30日04時51分]
お名前: マック
姓と苗字は違います。

例えば、姓としては源、平、藤原
で、源義満となり
苗字としては、足利義満。

そもそも苗字は、武士のIDカード
的に必要なもので、農民には必要な
いと為政者は考えたわけです。

姓、苗字が使えなくても、屋号は
良いはず。
例えば、越後屋とか不二家とか。

文献を見ないと、詳細は書けない。
明治になって、苗字の使用が認めら
れたとき、意外と混乱は無かったよう
ですからね。


[2004年12月30日04時48分]
お名前: BUZAN
広嗣様へ 百数十年前には9割の人が苗字がなかったというのは正しいでしょうか? 田舎の古い墓地をみると殆どの墓に苗字があります。 9割の人に苗字がなかったのではなく、苗字はあったが使わなかったという方が正しいのではないでしょうか。 使わなかったのは役所や代官所に提出する公文書にだけであって、通常には苗字は大いに使っていたのではないでしょうか?
[2004年12月25日21時06分]
お名前: 広嗣
 今回はフィリピンを取り上げます。と言っても、歴代の大統領の名前に見られる綴りに限った話ですが。

 エミリオ=アギナルト(Emilio Aguinaldo)に始まり、今のグロリア=マカパガル=アロヨ(Gloria Macapagal Arroyo)に至る14人の内、大半はエスパーニャ(スペイン)風の名前か綴りがエスパーニャ風になっています。元々独自の名前があったと思いますが、19世紀末までエスパーニャの植民地だった時代にこんな形になっていったのでしょうか。因みにフィリピンはフェリペ2世(在位:1556〜1598)から取っています。


追記:別のスレッドで話題になった占いを、アロヨでやってみたら、「額田王」でした。「責任感の強い華やかな女王様タイプ」だそうですが、実像はどうなんでしょう。


[2004年05月30日01時27分]
お名前: 広嗣
 中々他の国に進めませんが、今回は古代中国の史料に現れる日本の名前です。中国の史料に初めて出てくる名前は、卑弥呼でしょうか。「魏志倭人伝」は他に238年(通説は239年)の使節団長難升米、卑弥呼の死後に女王となった壱(臺)与、卑弥呼と前々から仲が悪く、遅くとも247年には戦争が再開した狗奴国の王、卑弥弓呼(または卑弥弓呼素)といった名前が出てきます。他にも名前とも官職ともつかない「名前」が出てきますが、ここでは割愛します。

 通称「魏志倭人伝」のある『三国志』より百数十年後れて『後漢書』が編纂されます。ここの「倭伝」(通称「後漢書倭伝」)に、「帥升」という王が出てきます。

 「宋書倭国伝」には「倭の五王」の名前が出てきます。

 「隋書俀(倭)国伝」には阿毎多利思比孤(別名、阿輩雞弥)や利歌弥多弗利という太子の名前が出てきます。

 「倭の五王」は讃、珍(弥)、済、興、武を指し、通説では応神天皇から雄略天皇までの大王に当たるとされています。讃などの字は、中国側が名前の一部をとって勝手に中国風につけたともされています。この点については大いに疑問があります。中国人は中華思想と言いながら相手の自称は大切にしています。だから、中国式の名前は、倭王自ら名付けたものと考えています。

 卑弥呼は名前というより「日ノ御子」や「姫巫女」のようなものに当たるという説があります。確かに卑弥呼だけ見るとそうとも言えますが、では、難升米や壱(臺)与はどうなのでしょう。見たところ、「役職」とも思えないし、「尊称」とも思えません。個人名とすると、これは和風なのでしょうか。いえ、これも中国風に自ら名乗ったものです。

 ここまで来ると必然的に触れないといけないことが出てきます。つまり、邪馬一国(邪馬台国)では漢字を使っていたし、当時の中国語(魏語?)も話せた、ということです。自称歴史への招待言語部会長としては、238年(通説では239年)の朝貢に対して魏王が卑弥呼に宛てて出した詔書と金印、狗奴国との戦争に際して出された証書や檄文を考えると、どうしても上記の仮説を抜きには考えられません。まさか魏王は卑弥呼達に神棚にでも飾って拝ませるために渡したものではないでしょう。

 もっと言えば、「漢委奴国王」だとされる印綬を渡した、後漢光武帝の時代の57年には既に漢字を使いこなしていたのではないでしょうか。

[2004年05月18日01時19分]
お名前: 猫紳士
ヤタガラスって、下町にそういう看板を出している店がありそうですな〜。
そういえば「ガラスの十代」という男性アイドルが歌う歌がありましたな。

奈良の吉野にいくと八咫烏という地酒があります。神武天皇を導いたという昔話に基づいているようですね。
[2004年05月04日15時05分]
お名前: ヘイ
>「ヤタガラス」

「すりガラス」や「合わせガラス」とは違うようですねえ。

窓際で休んでいる烏は、「窓ガラス」というんじゃないの。
ありゃ、違ったか?

[2004年05月03日10時37分]
お名前: マック
姓名判断について

日本のその道の研究者が、本場の中国
(実は台湾らしい)に出かけていって
書店なんぞを巡って文献を探したそうです。
ところがまったく無い。

さらに探すと、1冊だけ、姓名判断につ
いての書籍があったそうです。
しかしその著者は日本人だったのです。

そんなものなんですよね・・・・

[2004年05月02日22時02分]
お名前: 広嗣
 前回の追加です。

 芸名や源氏名も何か「霊的な力」と関係があるのかなと思っています。

 占いに姓名判断というのがあります。姓名判断の中でその人の名前に使っている文字の画数で占うものがあります。以前何かで見た占いの本で「文字の霊」といったことが書いてあった記憶があります。外国では、と言っても西欧・北米の白人に限った話ですが、例えばJohn Smithを画数で(?)占うということがあるのか知りません。

 もうひとつ、平忠常の乱の後に書こうと持っていて忘れていたのが、記紀に出てくる「因幡の白兎」や「ヤタガラス」のことです。

 「因幡の白兎」は兎が鰐を(鮫のことらしい)騙して対岸に渡って後で酷い竹箆返しを食らうというものです。この話は兎と鰐の間で本当にこういったことがあったということではなく、「白兎一族」と海の民「鰐一族」の間で起きた騒動が、伝承の形で後世に伝わったのでしょう。「ヤタガラス」は神武天皇の東遷・東征の中で出てくる「烏」で、神武天皇の道案内をしたと伝えられています。この「ヤタガラス」も本物の烏でなく、「ヤタガラス一族」ということなのでしょう。兎や烏として伝わっているのは、記録した人が、この一族の長の本名を知ることのできる立場でなかったのでしょう。


最後に。

 気をつけ!霊!

[2004年05月02日00時15分]
お名前: 猫紳士
 戦後日本でも、役職名でその人を呼ぶことが多々ありましたね。
 「部長」とか「リーダー」とかとか。自分も、そんな「霊的な力」を感じて役職名で呼ぶことがありました。

 しかしながら、戦後民主化の進行やマスコミやインターネットの発達とともに等身大の自分を出す習慣が、日本人の身に付いたのでしょうか。近年のニュースでも、役職名とかペンネームとかでなく、一個人の姓名で出てくる人が多くなったように思います。
 (個人攻撃が怖いから、いまだハンドルネームってことも私を含めてありますね。)

 封建制と本名を出さないこと、それと民主主義の関連性ってあるんでしょうね…。

[2004年04月30日19時17分]
お名前: 広嗣
 世界の名前を通してその国や民族の歴史に触れようという「企画」です。気紛れに書いてゆくつもりですので、書き込みは不定期で、いつまで続くか分かりません。(^_^;)

 今回は日本の名前を取り上げますが、アイヌ族などの少数民族は含んでいません。以下「日本(人)」というのは全て日本族のことであり、国籍としての日本人のことではありません。

 現在の日本の名前は、姓(苗字)と個人名の組み合わせでできていて、姓−個人名の順に名乗ります。しかし、皆が苗字を名乗るようになったのは、僅か百数十年前のことでしかありません。ここにいる人達には常識の話ですが、それまで日本人の9割以上に苗字はありませんでした。

 今でこそ個人名を名乗るのに誰にでも本名を平気で名乗りますが、平安時代には特定の人以外に本名を名乗ることはありませんでした。いや、18世紀になってもそうしたことは続いていたようです。アーネスト=サトウの『一外交官の見た明治維新』に「島津三郎」という名前が出てきます。生麦事件のことを書いているらしい箇所に出てくる名前なので、この「島津三郎」は島津久光のことのようです。島津久光は当時の薩摩藩主の父親でしたが、藩主であったことはなく、そうしたことから幕府の役職に就いたこともなく、朝廷から官位を受けたこともありません。幕府から何らかの役職に任じられていれば、「島津○○守」とでも名乗れたのでしょうけど、そういうことは不可能です。そこで外向けに「島津三郎」と名乗らざるを得なかったのでしょう。

 平安時代に話を戻して、本名を名乗れたのは、上司や家族といった人に限られていました。それ以外の人には官位や別名を使うことになります。ある人が上位の官位の人に自分の本名を告げることは、自分がその人の家臣になることの意思表示ということになります。

 1028年、平忠常の乱が起こります。平忠常は高望王の曾孫とされ、平将門は従兄弟伯父に当たります。忠常は祖父良文以来坂東の各地に地盤を築いてきた「坂東平氏」の流れを受けて、いつしか上総・下総両国に強力な地盤を築いてゆきました。乱の発端は、忠常が安房国を攻め、国司の源惟忠を殺害した事件です。この事件が朝廷に報告され、忠常追討ということになったのですが、当初の案は、源頼信が追討使になるというものでした。しかし、実際は平直方が追討使に任じられ、直方は忠常追討に向かいます。因みに直方は本来なら良文の兄国香の高孫に当たるのですが、父惟時が、祖父貞盛の養子になったために、家系図上は国香の曾孫に当たることになります。直方の忠常追討は容易に進まず、1030年、直方は更迭され、源頼信が甲斐守になると共に追討使に任じられます。頼信が甲斐国で忠常追討の準備を始めたことを知ると、忠常は頼信に降伏を申し出ます。乱自体はあっけない幕切れで、忠常は京に引き立てられて行く途中、美濃国で病没します。坂東ではまだ忠常の子の常昌(将)と常近が抵抗を続けていましたが、天慶の乱以降の疲弊に加え、直方の時期に行った厳しい食糧などの徴発と戦乱で坂東が酷く疲弊していることを考慮して追討は見送りとなりました。余談ですが、常昌は千葉氏、上総氏、相馬氏などの祖と言われています。

 忠常のあっけない降伏については、忠常が頼信の武威に恐れをなしたというのが通説です。実際頼信の祖父経基は、平将門・藤原純友の乱で活躍し、父満仲も安和の変で活躍した家系であり、頼信自身も洛中にその名の轟く武士でした。しかし、忠常とてただの暴徒の親分ではないし、一旦は頼信を差し置いて追討使になった直方を足掛け3年苦しめてきました。この問題を解く鍵は、『今昔物語集』巻25にあるようです。「坂東平氏」は良文の子孫だけでなく、「坂東平氏」同士の争いもありました。頼信が常陸守だった時にもこうした争いが起き、下総の忠常を攻めたことがありました。この時忠常が頼信に名簿を提出したという話です。つまり、名簿を提出する=本名を明かす=頼信の家臣になったというわけです。

 ところで、第三者に本名を明かすことを嫌ったのは、「日本独特」ではありません。また、その理由は名前に「霊的な力」を感じていたからのようです。

[2004年04月30日01時36分]
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