記事タイトル:梅が勝った世の中

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お名前: 江戸通
 江戸東京博物館にも、銅像がありますが、
開府400年が終わって、各地にある銅像も
徳川家康のものと、太田道灌のものと二種類
あるのは、ご存知ですか。
 鷹狩は、太田道灌もやっていたらしいですね。
 承久の乱のおり、関東勢から孤立して院で自決
した源頼政ら(頼茂.よりもち)の一族が、深く
係わっていたのは間違いないらしい。
 現在は、一条天皇の公武一体(ちょっと時代が
あわないかな)思想の産物のようなきがします。
  江戸通[2004年01月31日11時47分]
お名前: 江戸通
 五輪の書のように、「天、地、人」と区分けしてみましょう。

天の編
  現在の埼玉県、飯能から越生周辺に児玉氏から摂関家に寄進されたこと
から、越生の地名と越生という呼称がはじまりました。
  武蔵の国というのは、県という単位では、埼玉県と東京都を併せた区域
で武蔵の国に於ける武士団の中で、最大規模を誇る児玉党によって鎌倉初期
に開発立券されたのが、越生荘では桜の園は不発に終わりました。

地の編
 大宰府より分詞された天満宮を基に梅の園が広がる。これは、太田道灌の父
太田資清(すけきよ)が粗暴な道灌が立派に育つように取り寄せたという説と
南北朝の時期に源頼政の子孫である大田家が係わったとする説がある。
 源頼茂(ヨリモチ)という鎌倉初期の武将は、後記の頼政の孫で、鎌倉幕府
の御家人であり、鎌倉幕府の政所別当を務めながら、承久の変のおり、京都で
後鳥羽上皇の軍に攻められ、内裏で自殺しています。鎌倉期は、幕府は、
平家領の没収や陰田の把握に優れて幕府としては、最高の財に恵まれており、
その原動力ともなっていたことが伺いしれますね。
人の編
 児玉党は、児玉の名前が示すように、児玉を本領とし、本庄をも包含する
地域を所領とすりところから本庄家とも称しています。京都の公家有道氏が、
藤原伊周に使え関東に土着したのが11世紀始めとされ、源朝臣義家依頼の
御家人の浅羽家、大河原太郎などの記述が認められています。
 武蔵の国は、石浜に守護所があり明治に至り海に面した現在の富岡八幡に移され往時の
面影はないが、墨田川(往時の流れ)に沿って、下総の国境にありました。
  「武蔵国留守所総検校職」川越重員が任免されるまで、秩父氏より畠山重忠が頼朝から
「武蔵の国の沙汰」として任されていた。御家人、江戸、豊島、
川越、太田がいた。鎌倉期には、北条家が執権として代々武蔵守として実権をとり、
守護を兼ねるか近臣を任命していた。頼朝存命中には、越生新大夫が
勤めたという記事が「吾妻鏡」にあるという事なのですが、他には記事は、
ないようです。それは、浅羽家や大河原家にもいえるようで、頼朝以後には、
御家人としては扱われなくなったのかも知れません。
 後の代、越生に所縁の太田道灌も、問注所の太田家は京都の公家三善氏が
太田荘を得てから太田を称していますが、太田道灌とは先にも記したように
源三位頼政の子孫を自称しており京方からの移住を示し別のようです。
 梅のように香るというからして、親王将軍の側近として上杉家には、京都から
重臣として使えていたのが、太田家なのでしょうね。
  
 天、地、人は、宮本武蔵の基準を考量しました。
 なお、日本歴史の記事から、上杉家は、勧修寺家が下向したものという
解釈をさいようしています。

  江戸通
[2003年12月06日00時07分]
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