行基 ぎょうき 668〜749 仏教のうえだけでなく、社会事業の面でも大きな業績をのこし、生きながら菩薩とよばれた奈良時代の僧。百済系渡来人の子孫。和泉国の生まれで、15歳で出家、道昭について法相の教学(→+法相宗)をまなんだ。
+700年(文武4)に死んだ道昭の遺志をついで、社会事業をすすめ、各地に道場をたてて伝道にあるいた。彼をしたってあつまった信者は1000人をかぞえ、橋や道路、池や堀などの潅漑(かんがい)施設の建設、修理をおこなった。また多くの布施屋、つまり無料宿泊所をもうけて貧民をすくった。一般民衆は行基を菩薩とよんであがめるようになった。
+朝廷は初め、彼の行動を僧の規律に反したものとして弾圧したが、のちに東大寺の建立に際し、その勧進をおこなわせ、その功により日本最初の大僧正の位をおくった。なお、「行基図」とよばれる最初の日本全図をつくったともいわれる。
"行基"+Microsoft(R)+Encarta(R)+Encyclopedia+2001.+(C)+1993-2000+Microsoft+Corporation.+All+rights+reserved.
ここで、川原寺との関連をいえば、僧道明と並び賞される、道昭と言うものがあり
後、興教大師の創建とされる長谷寺に寺を建てたとされています。
現代という、気風は他の言い方を許さないのではという気概させ感じさせるほど、
ゆとりも無いよであった。なんて、司馬遼太郎さんふうにきこえないかな。
司馬さんは、奈良支局にも後継のぶんがくシャを用意されて、其の方もデヴュ‐
していたようですが、行儀というのが、必ずもしも行基とは別ではないのではないか
と言いたい。(~_~メ)
江戸通
[2003年04月02日21時20分]