記事タイトル:清少納言とは

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お名前: ピナッツ
清少納言のえって、どんなのですか
[2006年09月05日20時12分]
お名前: 蜜柑
もっと短く、分かりやすい、みんなが知らないようなことを知りたい
[2006年08月31日19時10分]
お名前: ☆しおりん☆
冷奴さん、ありがとうございます!
すこし、書けそうです!
ほかの人もよければ、なにか教えてください!
[2006年07月29日21時00分]
お名前: 冷奴
枕草子のいいところは、傾いていく定子の悲しさが微塵にもないところです。書こうと思えば、いくらでも道長側の恨み辛みを書くことはできたはずです。
自慢話もかわいくて好きです。
橘則光も大好きです。こういう人でよかったんだと思います。こういう人じゃないとだめだった。ただ清少納言には、この人のよさがわからなかったんじゃないかな?ぼんやりしてる無粋な人として描かれていますが、清少納言は完全にこの人の掌にあったんじゃなかと思います。
[2006年07月29日20時33分]
お名前: ☆しおりん☆
今、清少納言について調べてるいるのですが、よく分かりません!
なんでもいいので、なにか教えてください!!
[2006年07月28日21時18分]
お名前: ゆき
ものすごく勉強になりました!ありがとうございます
[2006年07月20日21時12分]
お名前: *由菜*
初めまして、ゆうなです。
みなさんの書き込みを見さして
もらいました!!
すごく勉強になりますww
[2006年07月09日20時26分]
お名前: 犬はっぴー
十二単は最高20枚着るンですよ。あっつそ〜
[2006年06月24日22時56分]
お名前: さおり
なげーよ。里香さん。でも参考になった。ありがと。
[2006年06月23日16時25分]
お名前: ふじこ
字ばっかりなので絵もつけたらいいと思う!                    でも清少納言のことが、よくわかった(・0・)!
[2006年06月22日10時19分]
お名前: フレンドリィ〜

清少納言について、詳しく教えてください!!!!!
[2006年06月14日21時59分]
お名前: みヵん
ぁぃぅぇぉ
勉強になりました


[2006年06月13日21時28分]
お名前: ちゅーーーーか。
紫式部って官職名なんだって。
[2006年06月08日17時46分]
お名前: みちょこ
清少納言は、「中国の文学の知識は私が一番」と言い、
紫式部はその言葉に「知識をあのように見せびらかすなんて、はしたない!」
という会話があることから、二人はライバル同士だったっていわれているはず・・・。

[2006年06月07日15時45分]
お名前: くま
実際には清少納言と紫式部は同時期に仕えていないのでライバルではありません。
どっちかって言うと、紫式部が勝手にライバルとしてただけのはず。。。
[2006年06月07日15時08分]
お名前: みちょこ
清少納言の事が詳しく書いてあって勉強になります☆
私も少し、書かせてもらいます・・・
清少納言と紫式部はライバル!
二人はともに一条天皇のきさきに仕えていた。
きさきがライバルなら、仕えている人たちもライバルどうしだった。
清少納言は当時男性の間で大切にされていた漢学の知識をもち、少し自慢やの女性だった。
ほんの少し書き込みさせてもらいました。
[2006年06月04日19時06分]
お名前: あああ
分かりにくいです。すいません読めないです。長すぎで・・・・

[2006年06月01日19時04分]
お名前: 愛
紫式部が好きですb
[2006年05月18日18時48分]
お名前: 里香    URL
清少納言について


《清少納言の名称について》

 清少納言という名前は、彼女が女房として宮廷に出仕するとき、主人(定子中宮)からあたえられた名前で、父母から付けられた名前ではありません。清少納言の本名は現在まで伝わっていないというのが本当のところです。中には、江戸時代の学者伊勢貞丈(さだたけ)の著述といわれる(異説あり)『枕草紙抄』の、「女房名寄」からの引用ということで、「なき子」「諾子(なぎこ)」という名称も紹介されていますが、史料価値としては疑問があって信用は出来ないそうです。

 これは、当時としてはめずらしいことではありません。その第一のライバルとされる紫式部にしても、また恋多き歌人として有名な和泉式部にしても宮廷出仕による呼び名で、その本名ではないからです。当時、女性でありながら本名を残すというのは、天皇の「きさき」の地位につくとか、長い宮仕えにより、女性でありながら三位の位まで昇進するとか、特別な場合でしかありえませんでした。親、兄弟、姉妹、結婚相手でもないと、女性の本名を知ることは出来ません。

 平安時代よりさらに昔、古代では、女性の名前を知るということはイコール結婚を意味していました。もし、知っている方がいたら思い出してほしいのですが、『万葉集』の第一番に載っている雄略天皇の歌を思い出してみてください。

籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串もち この岳に 菜摘ます児 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ 座せ われこそは 告らめ 家をも名をも

 これは、雄略天皇が若菜を摘んでいる娘に求婚している歌です。お家はどこですか?名前を教えてくださいと言っています。名前を教えてもらうということが結婚というと、現代では変な感じがしますが、当時、名前を教えるということは相手に支配されることだと考えていました。時代が下ってもそういう考え方が残っていたのでしょう。ですから、女性は自分の名前を身内にしかいいませんでした。

 さらに、平安時代という時代は、女性の地位が軽く見られがちでしたので、系図作製の簡略化がいっそう彼女たちの名をとどめることを憚らせたのです。

 さて、本題にもどりまして、では清少納言という名前はどこからきたものなのでしょうか?まず、この名前がどこでわけられるかご存知でしょうか?「清」と「少納言」でわけることが出来ます。「清」の部分は何を表しているのでしょう?それを知るには、彼女の出身を考える必要があります。清少納言は清原氏の出身で、その父は歌人として有名な清原元輔です。平安時代の歌の名手である藤原公任が選んだとされる三十六歌仙の一人、さらには梨壺の一人として後撰集の編纂にもかかわりました。そして、その元輔の祖父は清原深養父。百人一首に名をとどめる歌人です。また、この三人は全員が百人一首に載っています。さらに遡れば、『日本書紀』を編纂したといわれる舎人親王、また壬申の乱で勝利を収めた天武天皇にまでたどり着くとされています。

 では、「少納言」はどうでしょう。少納言は男子貴族の官職名の一つですが、清少納言は女なので、直接の官職ではありません。宮廷奉仕という場における関係上、男子の官名が女子にも転用されたのでしょう。この少納言という呼び方は、『枕草子』のなかでよく出てきます。特に、主人である定子中宮に呼ばれるときなど、清少納言ではなく、少納言とよばれています。ですが、『枕草子』以外の文献には、清少納言と記述されているので、一般には清少納言と呼ばれ、内々に少納言と呼ばれていたものと思われます。よく、「清少」と「納言」で間違えてわけてしまう場合がありますが、それでは名前の本質を忘れてしまったことになります。昔は、清少納言や紫式部を略して「清女」「紫女」というように称しました。そして、紫式部や和泉式部などの式部という名称は、身内(父や夫など・・・紫式部の場合は父の官命から、和泉式部の場合は和泉は夫の任地から、式部は父の官命から)にその官職の者がいて、それを利用している場合が多いのですが、清少納言の場合はそれらしき身内が見当たらないというのが現状です。研究不足であるためか、資料が残っていないというところでしょう。


《清少納言の人生について》

 清少納言の幼少時代についてみてみましょう。清少納言が生まれたのがいつかというのは、はっきりした資料が残っていないので分かりません。康保三年(996)出生という説に従うと、父元輔五十九歳のときの子供ということになります。この元輔が六十七歳のとき、周防守としてはじめて地方に赴任したのですが、そのとき九歳の少納言は父とともに周防に下ったと考えられています。元輔のもっとも年老いてから恵まれた末っ子の女児で、父の愛を深く受けていたと考えられます。清少納言の母については、何も資料が残っておらず、清少納言の母でありながらその名を歴史上にとどめていません。

 清少納言十三歳のとき、父の任期が終了し、帰京することになります。天元四年ごろ、少納言は、橘則光と結婚し、翌年則長を生みます。さらにその弟季通を生んだと考えられ、則光との間には何人かの子供を儲けていたようです。この則光とは十二〜三年ほど結婚状態にありましたが、離婚することになります。原因が何であったかはっきりしませんが、この則光とは、清少納言が宮仕えをしはじめたときに再会し、宮中では兄・妹の仲で通っていますから、お互いに憎みあって別れたということではなさそうだという考え方もあります。少納言が、この則光と結婚している間、父元輔は七十九歳の高齢で、肥後守として遠く九州へ赴任しています。ところが、元輔はこの任期中に肥後で亡くなってしまいます。

 父が亡くなって程なく離婚したと思われる清少納言は、時の天皇一条天皇の中宮である藤原定子に仕えることになります。清少納言が宮仕えに出た時期を決定することは、今となってはこの上なく難しい問題ですが、正暦四年という説に従いますと、一条天皇十四歳、定子中宮十八歳のことになります。定子中宮のことは藤原定子についての項目で詳しく書いていますが、父である道隆が亡くなってからの零落ぶりが激しく、自然、中宮に仕えていた少納言の運命もそれに大きく影響されています。

 では、時の天皇一条天皇について少し触れておきましょう。一条天皇は、円融天皇の第一皇子、諱は懐仁(かねひと)。御母は兼家の娘詮子。天元三年六月一日出生、五歳で皇太子、十一歳で元服。このとき後の定子中宮とご結婚されています。そして三十二歳崩御というお若さで亡くなられています。

 清少納言が始めて宮仕えをしてから、中宮の父、道隆が亡くなるまでは、彼女の人生でもっともはなやかに活躍した時期であったと思われます。それに対して、道隆が亡くなってからは、悲哀にみちた宮仕えとなったかもしれませんが、『枕草子』には意図的であるのかないのかは別にしても、全くそういった悲しみをテーマにして書かれたような文章はありません。少納言の性格もあるのでしょうけれど、あえて書いていないというところに、何かメッセージのようなものがこめられているような気がしてなりません。

 清少納言の晩年は、これもまたよく分からないというのが現状ですが、藤原棟世という受領階級の貴族と再婚し、小馬命婦と呼ばれることになる女子をひとり儲けたようです。この小馬命婦は、定子中宮のライバルであった上東門院彰子(藤原彰子)に仕えることになります。

 そして、清少納言がいつごろ亡くなったかということもまたよく分かっていませんが、五十歳の終わりから六十歳のはじまりごろに亡くなったのではないかと考えられています。




[2005年08月22日22時11分]
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