お名前: 沖縄の彪
昌幸かな 徳川秀忠を関ヶ原の戦いに間に合わせなかった
[2012年02月17日22時41分]
|
お名前: 流雲
父親の昌幸でしょうね。
家康にとって大坂の陣に関しては、始めから勝負が確定していた戦いです。
そこで信繁(幸村)がいくら奮戦しようと、たとえ家康を討とうと、豊臣の滅亡は
変わらなかったでしょう。諸将は秀忠を旗印にして結束するだけのことです。
それに比べ、昌幸の功績は家康の戦略に見事に一石を投じています。
関ヶ原で主力軍を遅滞させたのは秀忠の責任も大いにありますが、
これが家康の戦略・戦術に少なからず影響を与えたでしょう。
下手な話、西軍を指揮していた将が家康に匹敵するだけの戦上手であったならば
勝敗は変わっていたかもしれません。
しかし、残念なことに史実の関ヶ原でも家康の最終的勝利は約束されていました。
西軍は開始前からすでに瓦解寸前で、結果はあっけなく勝敗がついてしまいます。
「戦わずして勝」
これが戦略家・徳川家康の恐ろしいところでもあります。
戦は数でするものです。寡兵で幾ら大軍を打ち破ろうと、
国力に勝る敵にあらがうことはできません。戦いが続く限り
戦力に乏しい軍は必ず敗北します。
実際のところ、小大名の真田が幾ら反抗しようと、
家康は痛くも痒くもなかったというが真実ではないでしょうか?
[2010年06月02日16時51分]
|
お名前: 真昼の月
真田昌幸・幸村親子は徳川を苦しめたほどの戦上手です。両方とも徳川に大打撃を与えましたが、最終的にどっちの方が徳川を苦しめたでしょうか?
[2010年06月01日14時14分]
|