記事タイトル:西郷隆盛

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お名前: 西南の役
西南戦争は、鹿児島の城山で官軍(政府軍)と西郷軍(薩摩軍)
との戦い日本では最大の戦死者を出した戦

官軍は、新式銃や沢山の砲弾を利用し、政府軍から薩摩軍へ
向けて雨のような銃弾や砲弾飛来の惨状と化す。
砲弾はボウリング玉弱くらいで凄い勢いで飛んでくるので
顔や体がつぶれる者も多数。銃弾を受けその場で倒れて
亡くなる者も多数。何万発も薩摩軍へ銃弾を容赦なく打つ。
政府の使った銃は、最新式の新式銃で連射銃で
1日に何万発も打ってくる。それに対し、怖がらず怯まず
刀を振りかざし立ち向かってくるのは西郷軍。
銃の数は極端に少なかった。この戦いが城山で起き
地元の女性兵士まで西郷軍につき敵と戦う勇ましい様子もあった
逆に政府軍の方がびびっていたが、武器にばかり頼っていた。

西南戦争は、1877年の明治10年に現在の熊本県、宮崎県、鹿児島県に
おいて西郷の盟主にして起こった士族の武力による反乱。

西郷だから鹿児島の士族だけでなく鹿児島は士族は物凄く
多かったが、人を集めないといけないため、援軍として
近隣の藩へ薩摩軍に参加してもらえないかの要請依頼が各地の藩に
きた。宮崎にある佐土原藩、高鍋藩、日南の飫肥藩、他の藩も
全部鹿児島まで行って西郷の為に援軍参加した。

敵の政府軍も実は鹿児島出身者が多かった。
いわば仲間内に近いような状況。日本最後の内戦となる。
なので薩摩の敵の政府軍は、本当は西郷を殺したくは
なかった。
田原坂の戦いに敗れた西郷軍は、人吉―延岡―宮崎と敗走を重ね
鹿児島の城山に戻る9月24日追い詰められた西郷軍300人を
政府軍5万人が包囲し総攻撃。最後には幹部だけとなる。


西郷の護衛をしていた将校の桐野利明(剣の達人)は
西郷が亡くなる前に西郷を逃がす為官軍に一人立ち向かい
沢山の敵に囲まれた中、銃を受け頭や体を斬られても
戦い続けて戦死した。

村田新八、池上、別府、辺見たち幹部も戦死

城山を出た所で西郷に銃が3発当たり、西郷が
将校の別府に、ここでよかと介錯を頼み別府は
「先生、ごめん」と言って首を刎ねた。

この戦い政府軍死者は6403人、西郷軍は6765人に及び
多数の負傷者を救護するために敵も味方も関係なく
救護する「博愛社」が活躍した。

その後、生き残った者達には各地で厳しい裁判が起こった。
西郷が亡くなったのを嘆き悲しんだのは地元の人も
だったが、明治天皇も大変悲しんだという。
[2006年10月04日00時29分]
お名前: 西南の役
西南の役は、西郷さんが率先して起こした戦争ではありません。
これは、事実です。元々西郷さんという方は、戦いをするのは
嫌いな人でした。地元の人が可哀想に。部下のせいで責任者に
立てられてたから、最後あんなになってしまってといいます。

西南の役が起きた誘引は、当時各地にいた旧武士の反感や抵抗
鹿児島につくった私学校に対する政府の曲解など、
それを放任した政府の無力等にあり。鹿児島では反政府の動きが
みなぎっていました。明治10年1月政府は鹿児島(薩摩)の
士族に恐れをなし、鹿児島にあった兵器や弾薬を全て
大阪に移転しようと考えていたが鹿児島の私学校生徒らは
その機先を制して先に1月末ー2月初旬にかけてこれを奪取
占拠しました。この事で政府が、薩摩が弾薬を先に持ち出して
政府に対して攻撃をしてくるのではないかと勘違いする。

さらに警視庁の警部中原らが大久保利通(鹿児人)の
密命を受け西郷暗殺を企てているとの噂が広まり
噂を信じてしまった私学校党が、先生が殺される前にと
2月に中原一味の60余人を一網打尽に捕らえてしまう。

このように私学校党の反政府熱がかなり高まり
政府から物凄く睨まれるようになり誤解された。
戦いに引くにひけない状態になってしまう。
つまり西郷の部下が勝手な行動を起こしたがために。

2月3日朝に西郷の護衛の将校の桐野利明の命令に
より辺見十郎太ら三人は、狩猟と入湯で大隈高山の別荘に
いた西郷に、私学生(つまり部下)の勝手に起こした
事件を知らせる。西郷は早まった!今更起こったことは
致し方あるまい。と別荘を後に鹿児島に向かった。

その後、鹿児島の士族らが西郷に政府打倒!と詰め寄る。
西郷先生、政府と戦いましょうと皆からけしかけられた。
部下が余りにも勢いづいているので、西郷は責任者として
戦陣の大将として上に奉り上げられた。
事の発端は手下の勝手にした行動に火の粉がついたかんじ。

結局、日本史上最大、最後の内乱にまで発展。
お互いに国を想う真情と信念により戦われた一大血戦。
明治10年2月15日 13000名の薩摩隼人は
「政府に尋問の廉これあり」として進撃を開始。
前日から南国薩摩には珍しく大雪が降りしきり
降雪をけって熊本を経て東上した。全軍は二隊に分かれ
一隊は篠原が率いて西目街道を伊集院から阿久根・水俣と北上
主力は東目街道を加治木から横川、加久藤越を経て人吉に入り
八代に向かった。2月下旬 薩軍は相次いで川尻に進出
2月21日の軍議で全軍が熊本城を強襲することになった。
しかし攻めても攻めても熊本城を落とすことは出来なかった。

最大の激戦となったのが明治10年3月4日から20日までの
17昼夜にわたる田原坂の戦い。大激戦となった
17昼夜に渡る田原坂の血戦では、殆どが雨の日が多く
「雨は降る降る 人馬は濡れる〜」の言葉が有名。
[2006年10月04日00時10分]
お名前: ナな
そうですね〜。最後に妻から送られてきた死に装束を着て自害したって聞いたことあります。
[2005年12月31日12時30分]
お名前: 冬樹
西郷隆盛って西南戦争おおこして明治政府に敗れ自殺してしまったんですよね?
[2005年10月05日19時54分]
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