記事タイトル:なぜ薩長は・・?

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お名前: 勝てば官軍?
久々に見たら、ちょっと寂しいレベルの書き込み増えましたね。
歴史とは、歩く事。
その場所や立場に立って考える事。
武将や志士なら、自分だったら、同じことが出来たか、
職人やその道の人なら、同じ研究が出来たか、
後ろめたい生き方をしてる人なら、
未来も、来世も同じ生き方選ぶか、それを考える学問なり・・・・
さあ、誰が言った言葉か?
[2005年10月04日02時34分]
お名前: いさみ
時々思うのですが、学校などでみなさんかかれている様な事は
何も教えない。すべてをあけて、今の時代のきっかけとなった
薩長の考え方のいいところ、間違っているところ、慶喜が、考えて
いた草案のいいところ、悪いところなどをもっと詳しく書いても
いいのではないかと思う。さまざまな資料に基づくと、官軍側に
対して僕自身としては、好きになれない。あまりに強引だし、たぶん
遅かれ早かれあんな強引なやり方してなくても、今の時代は慶喜ら
幕府側でも切り開けられたのではないかと思う。そうすろと薩長や
岩倉らのやった事が全くもって無駄だったのではないかと思う。彼らの
様な過激派がいなければ、新選組とかも別のところで活躍していたと
思うし・・・・。もちろん官軍側にも考え方の進んだお方もいらっしゃる
様ですけど。
[2004年11月21日23時49分]
お名前: ヘイ
明治維新においては、薩長などの西側有力藩の力によるところが大きい。これは徳川殿が幕藩体制を確立する過程において、外様を地元へ留めおいたのが遠因ではないかと。参勤交代や土木工事などで力をそぎ落てしてはみたものの、やっぱり力は温存してたのでは。
つまり、力ある者が出てきたらいつでも政権交代していいよという下地はあったわけね。
また、江戸初期から中期にかけて、大名廃絶の嵐が吹き荒れたけど、島津・毛利はクリアーしてるしね。

もうひとつポイントになってるのは、幕藩体制・士農工商という社会秩序を堅固なものにするため、朱子学を導入したこと。徳川体制を絶対善なるものとして導入したものなんだろうけど、絶対善なるものが朝廷へとつながってくることを見抜けなかったのかな。
尊王思想ともなれば、幕府よりも朝廷を上位におくことになるから、矛盾してるわね。
あろうことか、徳川御三家のひとつである水戸藩からこの思想が出て、松下村塾へと受け継がれことになった。

西郷どんは、カリスマ性のある人物だから、好きな人は好きなんでしょうね、きっと。
ただ、イメージ的なものと実像とはちょっと違うんじゃないかと。実像の詳しいことはよく知らない。ただ単にそんな気がするだけ。

桑名藩のホームページは、本来ならば「松平定敬」で検索すべきところを、どこをどう勘違いしたか、「松平定猷」で検索した結果。ひとつひとつ軽くチェックして、これならぴったりかなと提示したもの。失敗の巻だけど、「松平定敬」で検索しても同じような結果だったかも。
世の中広いから、いろんな人がいるようで・・・。


[2004年02月19日00時28分]
お名前: 勝てば官軍?
岩倉具視の孝明帝毒殺(暗殺)説はよく言われますね、まあたぶん関わってた事には間違いないでしょうな。500円札になりましたが、さまざまな書籍を読めば読むほど、なぜ紙幣の顔になれたか、昔は疑問を感じずにはいられませんでした。人気や尊敬できる点がなさ過ぎます。ただ幕府を倒幕させたには違いないが、西郷を追い込んだのも、彼の功罪だと思います。不思議に評価が高い。個人的に私は、あまり西郷さんは好きではありませんが、彼は周りにいた薩摩人以外の人間に、あまり恵まれなかった気がします。龍馬を除き、歴史上、有能、功績ある人物と見られる人々と、いい付き合いが出来なかった、と思います。岩倉は皮肉を込めて言わせてもらえば、官軍中の官軍ですよ。

桑名のHP、すごいですね。恐れ入りました。教えていただき、ありがとうございました。


[2004年02月18日02時28分]
お名前: ヘイ
鳥羽伏見の戦いでは、錦旗が薩長側にひるがえった。この効果は抜群だったようで。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」とは言うけれど、勝ち負けよりも朝敵となるかならないかの差でしょう。その証拠に、元治元年の禁門の変で長州は朝敵となった。鳥羽伏見の戦いで、幕府が朝敵へと大きく転換した。
これには、岩倉具視の工作が大きく影響していると思われる。
明治天皇の前は孝明天皇で、こちらは幕府寄りであった。ところがおかしな死にかたで早世した。岩倉具視による暗殺ではないかとう噂もあるくらいだけど、確たる証拠もないゆえ、うやむやに。
もしも仮に孝明天皇が存命しえたとしたら、会津藩が賊軍の汚名を着ることはまずなかったものと思われる。というよりも、孝明天皇がそんなことはさせなかったはずだ。ちなみに、岩倉具視は孝明天皇の侍従であった。

よって、会津藩が賊軍の汚名を着たのは、ひとえに岩倉具視ひとりのせいであると言っても言いすぎではないであろう。
薩長と幕府の間柄は周知の通りなので、これはしかたないんじゃないかな。もっとも、七卿落ちの時期では、薩摩藩と会津藩は合同で尊攘浪士狩をやってたこともあったようで。


[2004年02月15日11時18分]
お名前: 白
すごい、面白い、これは、すばらしい。
感謝。
[2004年02月14日01時52分]
お名前: ヘイ
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/sub5.htm
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/sub51.htm


[2004年02月13日21時15分]
お名前: 勝てば官軍?
大変、おもしろい資料ですね。
ありがとうございました。
どちら様が書いたものですか?
[2004年02月12日23時29分]
お名前: ヘイ
桑名藩
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/sub52.htm

参考になるかどうか


[2004年02月12日20時51分]
お名前: 勝てば官軍?
会津中将容保は、よく踏ん張ったと思うが、アームストロング砲を始め、

武器の強化は、いとも簡単に、歴史に決着をつけてしまいましたね。

元をただせば、龍馬が長州の武器の買い入れに薩摩を利用する手立てを

つけなければ、こんな武力逆転はなかったでしょうね。

奥羽越列藩同盟が仮に(歴史に『もし』はないけど)機能してたら、

西洋からの新兵器の前に列国諸藩の死者はかなり増えてたでしょう。

会津が米沢・仙台等の援軍を待って、ろう城してたのなら、

会津は本当、ぎりぎりまで、よくがんばったと思う。

京の都の守り神、会津肥後様とうたわれた容保が、領国で賊軍となって、

降伏する、悔しい結末。

会津藩の無念は、察するにあまりあります。

ところで桑名藩主の定敬はその後どうなったのでしょうか
[2004年02月11日23時43分]
お名前: ヘイ
会津戦争では奥羽列藩同盟の存在がキーになってるのでは。

元々奥羽列藩は会津藩救済のため、寛大な処置をするよう嘆願書を出していたけど(中心となって進めたのは会津藩)、官軍側ではただ一人長州の人間がこれを認めず、参謀に送った密書に「奥州皆敵」と書いてあって、これが露見した。ここらへんから話がこじれてくる。
結局この男は仙台藩士に殺される。奥羽列藩は「朝廷には忠誠を尽くす、薩長政府には協力しない、奥州鎮撫総督には従わない。」という太政官建白書を朝廷に送るんだけど、これは達成されなかった。
それまでは奥州鎮撫総督は何が何でも武力征伐一辺倒ではなかったが、ここにきて新政府側は方針変更せざるをえなくなってきた。部隊も再編成された。
奥州全体を相手にしなければいけないんだけど、作戦的には会津をまず叩く。そうすればほかの藩も落ちるのは簡単であろうという考えだったかと思います。もちろん、会津藩以外の奥羽列藩とも同時に戦うんだけど、投入する主力は会津藩。早く落とすには徹底的に叩く。こんなとこじゃないですかねえ。

白虎隊がクローズアップされてるようですけど、知名度の点からいけばしかたないかも。
白虎隊(16〜17歳)6中隊
朱雀隊(18〜35歳)12中隊
青龍隊(36〜49歳)9中隊
玄武隊(50歳以上)4中隊

1中隊は約80人。



忠臣蔵は天下泰平の世におきた事件。こちらは、激動の時代におきた攻防戦。


[2004年02月07日23時29分]
お名前: 勝てば官軍?
詳しい・・

でも会津のやられ方と関係ないじゃん、会津の抵抗と・・

ちなみに愛知県の吉良吉田辺りじゃ、今でも上野介は名君。ゆかりの地や場所、私も知

てます。実績、幕府への貢献ぶり、は資料に残ってますよ、それを知らせないから、忠

臣蔵はドラマって事。

あだ討ちは史実、

忠臣蔵はドラマ、

江戸庶民に愛された物語です。
[2004年02月07日03時13分]
お名前: マック
えっと

忠臣蔵は、史実です。研究され尽くしています。
中公文庫 日本の歴史 第16巻 元禄時代
338ページから371ページまで。



[2004年02月05日23時44分]
お名前: 勝てば官軍?
白虎隊もドラマになったが、ドラマじゃない、白虎隊は懐疑的な歴史学者に、悲劇を語らすために死んだんじゃないよ。
もちろんドラマでやってほしいわけでもなかったはずだし。
でも忠臣蔵は時代劇ドラマ。
江戸時代から、庶民に親しまれた物語だ。
でも歴史はドラマじゃないでしょ。きれいなトコだけ、見てたらドラマだけど。
しかし、会津藩士はかわいそうだった。どうして賊軍に、いつから賊軍になったか、わからず死んでった人もいただろう。
そういう負け方は、ほんと、悔しいでしょうね。
[2004年02月05日04時44分]
お名前: マック
歴史は、ドラマやで。

歴史学者はたえず懐疑的である。
ノルマンディ上陸作戦のとき、ひとりの
陸軍将校がつぶやくのだ。
  わたしは歴史のまった中にいる
  しかし何もわからん。
  しかし歴史学者がいつも懐疑的
  な理由はわかった。

そんなわけよん

[2004年02月05日02時27分]
お名前: 白は限りなく白
下の方、なんかようわからんな?

忠臣蔵は逸話の宝庫で、比べよう無いんじゃなかか?

上杉家の色部ナニガシも本当に吉良家救済のため、ドラマのように止めたんかなあ?

いかにもそれじゃあ、史実に対し火中の栗を拾うが如く振る舞い、ドラマっぽ過ぎませ

んか?

忠臣蔵はあくまでドラマやで・・
[2004年02月05日01時07分]
お名前: マック
徳川の譜代大名たち、それに1万石未満の旗本たち
は、なぜ無力だったのか。

それは司馬遼太郎が、、花神 の中で分析していた
・・・ような うろ覚えですけど。

ようするに 赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際に
隣接する大名家はただひとつも動かなかった。

その報を受けた、米沢藩上杉家の若き藩主
(吉良の実子が上杉家の養子となり、藩主)
も応援に出撃しょうとしたが、家臣たちによっ
てたかって、制止されてしまう。

赤穂浪士の討ち入りは、噂として予告されて
いて、、事前に何らかの応援を約束していたにも
関わらず、、他家の誰も動かなかった。。。

これと同じ現象が、また起きると。




[2004年02月04日02時40分]
お名前: 勝てば官軍?
藩祖保科正之の家訓からくるとは、お詳しい。容保、定敬兄弟は殿様でありながら、殿様でなかった、というわけですね。大政奉還後、慶喜は大阪から江戸に、逃げますが、それにしても第一次長州征伐の時、あれだけ孤立していた長州に対し圧倒的な数の強さで、追い込んだ幕軍が、薩長同盟、大政奉還後、鳥羽伏見で錦の御旗を立たされたり、討幕軍の武器の強化もありましたが、何で見方も無く、あんな短期間で敗れたのでしょうか?徳川譜代の大名たちは何やってたんでしょうか?江戸城無血開城前の新撰組の甲府での戦と、開城直後の上野の彰義隊くらいしか、まともに戦ってない気がしますが?何で長岡と東北諸藩しか・・と思います。
[2004年02月02日01時52分]
お名前: 広嗣
 あくまでも私見ですが、会津藩の執拗な抵抗に、徳川家光の異母弟で初代藩主の保科正之の残した「会津藩家訓(かきん)」第1条が大きく影響しています。

 その第1条の趣旨は、「会津藩には他の藩に関係なく(徳川)将軍に対する忠義を果たし、万一将軍に叛意を抱く藩主が現れたら、そのような者は私の子孫ではないから、家臣は従う必要はない」というものでした。

 正之は家光の異母弟とはいえ、第2代将軍秀忠を父とは呼べない環境で育った人でした。また、1633年に切腹を強要された、「傲慢無礼」だったと言われる実の弟忠長のことも頭にあったのかもしれません。そのために「将軍家」という立場を捨て、「家臣の分」を守ったことで家光に気に入られたことが、上記の家訓に繋がったのでしょう。

 社会は時代と共に変わって行きます。しかし、会津藩がこの遺訓に忠実であろうとしたことで、「新政府軍」への抵抗は激しいものになり、「新政府軍」の攻撃も自ずと激しいものにならざるを得なかったのでしょう。


[2004年01月28日02時43分]
お名前: 勝てば官軍?
会津藩の悲劇が白虎隊のエピソードと共にたまに語られますが、なぜ薩長中心の新政府軍はあそこまで会津だけを徹底的に攻め滅ぼしたのでしょうか?なぜ会津だけあんなに抵抗しつづけたのでしょうか?今年は新撰組、土方の最期はやってくれるか、わかりませんが、戊辰の戦を再検証したいのです。書き込みお願いいたします。

[2004年01月24日02時16分]
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