記事タイトル:明智光秀の弟子(家来)について

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お名前: オル
遊行笑人さん
とっても有益な情報どうもありがとうございます。
感謝いたしております。

[2005年06月06日22時41分]
お名前: こーし
明智光秀の家臣に、丸に三柏の家紋の家臣、どなたかしりませんか?だいぶん前に、友人から聞いた事があります。実家には巻物類とかは置いてませんが、ルーツを知りたくて、書き込みしてます。
[2005年05月28日10時17分]
お名前: 遊行笑人
一字訂正お願いします。前文中6行目の石部は石谷ですので済みませんが訂正して御読みください。
[2005年04月09日12時59分]
お名前: 遊行笑人
オルさま、マックさまちょっと今朝方覗き見いたしまして、聊か稲葉氏に由縁ある家系にて、興味を抱きました。
最近私の菩提寺の史料に接し、長宗我部氏の系図を探索中に、元親の妻は、石谷兵部大輔(光政攝津入道・空然殿也)其の子・石谷兵部少輔の妹也。重ねて、次の時代にも、嫡子親信も石谷加兵衛の妹を娶ると記す。マックさまの云う、この石部兵衛殿が斎藤利三の異母兄弟か?!と考えます。
斎藤内蔵助利三の弟妹は、石部殿の他に妹一人・弟二人(斎藤大八郎利次・斎藤吉兵衛)有りと記す。又、利三の子には同佐渡守利宗・稲葉出雲守・斎藤予惣右衛門・斎藤七兵衛・女・女・於福さま(春日局)と記されております。参考までにて。
其れと、この稲葉氏は伊予国の河野氏を出自にて、未だ美濃国稲葉氏の祖と云われている御仁の
身元も各説入り乱れて居られる様ですが、この度の先祖の所以をこのHPの『日本史』コーナーにて、遊行致し、新たなる史料を菩提寺所蔵の長宗我部元親殿の石部兵大輔・空然)殿と併せて稲葉勘右衛門重通殿への返書の写しを手に入れました。この事にて私共と稲葉氏の時代の附合の証を、仏縁にて自然の導きにて手許に授けられましたものです!。合掌 是非御案内のコーナーの一連の記述を見て下さい。テーマは『四国の国領大名』也。
[2005年04月09日12時11分]
お名前: みかん
はじめまして、私のおばあちゃんも明智光秀の子孫だそうです。家系図も持っていたんですが、戦争で焼けてしまったそうです…なので大阪城に近づいては行けないと言われてます
[2005年04月08日22時05分]
お名前: オル
マックさんありがとうございました。
利三でしたね。変換ミスです。
自分のご先祖様なので、もう少し詳しく調べてみようと思います。
因みに斎藤家の人は、人格者で今でもみないい人ばかりですよ。
それだけは今も昔も自慢できます。


[2005年01月30日13時38分]
お名前: けい
こんばんは。
マックさん、ありがとうございます。
母の実家は名古屋の西区でした。
実家は戦争で焼けてしまい、街も変わってしまって、家があった場所は
学校になっていました。
余談ですが^^
私の通っていた小学校の修学旅行は、京都で、宿泊は毎年、「本能寺会館」でした。
姉も私も泊まりました。
現在の本能寺は本来の場所とは別のところに建てたと聞きましたが、
なんとも複雑な気持ちで泊まった想い出があります。

[2005年01月24日01時33分]
お名前: マック
オルさん、こんにちわ。
初めての方かな。

通説としてですけど、明智光秀の妹を
妻にしたのは、斉藤利賢です。
つまり斉藤利三の母親が、明智氏ということ
です。斉藤利光ではなく、斉藤「利三」で
書きます。利光と利三は同一人物です、念の
ため。

それから
斉藤利三の異腹の妹が、長宗我部元親に嫁ぐ
わけです。異説はあるかもしれませんが、
とりあえず、以上のものは通説です。

斉藤利三の妻は、
稲葉一鉄の兄である稲葉通明の娘(おあん)と
いわれています。この夫婦の末娘が、お福です。

お福の兄姉達の消息ですけど、、、
お福のすぐ上の姉は、柴田源左衛門の後妻に
なったことぐらいかな。
この柴田某については、不明。

他の兄、姉の就職先も、不明。

とりあえず、こんなところかな。




[2005年01月17日18時53分]
お名前: オル
私の母は、おそらく斉藤利光の末裔ではないかということらしく。
名前も阿福(春日局)様から頂戴したらしく、フク子といいます。
幼くして父を亡くし、記録が乏しいのですが、
幼くして父を亡くし、大変な苦労したのも斉藤家の因果かもしれません。
斉藤利光に関して知っているのは、
斉藤利賢の次男で
妹は長宗我部元親の妻、
妻は明智光秀の妹(おあん)、
子供は7人、
末娘は阿福(おふく=春日局)
ということまでです。

春日局以外のこの7人の子供について知っている方教えてください。



[2005年01月16日15時25分]
お名前: マック
桔梗の家紋といっても、もともとは美濃守護、
土岐家の家紋なのである。

土岐家は家康に拾われ、旗本から小さな大名へと
取り立てられています。やはり桔梗紋を正式にして
いたかも??。

ちなみに加藤清正は表紋(幕府に届けた正式な家紋)
に、桔梗紋を使い、世間から謀反の噂が立てられと
いいます。

えっ、「けい」さんの母方の実家は名古屋ですって
何区かな??。ぜひ知りたいものです。
えっ、戦争で離れ離れ??。

それから揚羽蝶の家紋というと、池田一族の表紋
です。ルーツは、信長の乳母だった池田恒興の母
が、蝶紋のはいった裃を息子に贈ったところ・・・
織田信秀に、蝶紋がよく似合うと誉められたことに
よるらしい・・・・・。

家紋のルーツは、実に、つまらんことが多い。

けいさん、sobrin さん、武部さん
今後ともよろしくお願いします



[2005年01月11日03時10分]
お名前: けい
はじめまして。
私の母も、明智の子孫だと聞いています。
家紋がやはり桔梗です。アゲハ蝶の家紋もあります。
そして母は18代目だそうです。
母の実家は戦争で離れ離れになり、消息がわからないので、
今では事実かどうかも確かめる術もありません。
偶然、このHPのかきこみを見て、もしかしたら、なにかわかるかもと思い、
書きこんでみました。
sobrin さんの言われるとおり、遠い親戚に会えるかも・・・なんて、
とてもワクワクします。
ちなみに母の実家は名古屋です。


[2005年01月06日01時10分]
お名前: sobrin
こんにちは。はじめて書き込みしました。この話題は1年前のようですが、今日家紋の話になり、以前から、うちの家紋は丸に桔梗紋で、家には本物かどうかわかりませんが、巻物があり、明智光秀の子孫と書かれていましたが、本当はどうなんだろうと思い、インターネットで調べていてこのホームページを見つけました。もうすでにこの話題は終わっているかもしれませんが、遠い遠い、親戚の人に会えるのではと思い書き込みました。
[2004年10月24日20時12分]
お名前: 武部 裕
明智光秀の子孫と言う書き込みに興味を覚え参加させてもらいます。実は私の実家
内田家(岡山市)でもそういう言い伝えがあります。証拠は女家紋が明智の桔梗ということです。これは秀吉の備中高松城の水攻めのころにさかのぼるそうで極秘裏に落ちのびた明智の子孫が足守の木下家の保護の下に置かれたということで、岡山の牟佐に大内田屋敷という旧家があると聞いています。その後は岡山南部の新田開発に尽くしたそうです。でも秀吉は中国大返しの後山崎の合戦後天下を取り、明智一族は子供も含めてすべて京の川原で打ち首にしたとあるのですがここら辺が歴史の奥が深いところで、調べてみると面白い。秀吉と言う人間のうさん臭いところが見え隠れするのだが、だいぶ歴史を書き換えているのではと疑いたくなる。
木下家はねね(おね)の出所であるしなにか北の政所の意志が働いているようにも思える。う〜ん奥が深い。ところで私が明智の血を引いているのなら細川ガラシア婦人とも
DNAがつながっているのかな?いちど調べてみる必要がある。
[2003年10月06日14時56分]
お名前: りこ
マックさん
どうもありがとうございました(^○^)/

自分でももっと調べてみますネ!
また何か分かりましたら
どうぞよろしくお願いします_(__)_
[2003年08月27日02時11分]
お名前: マック
明智光秀の家臣についてですか。
しかも一番弟子のような家来について。

とりあえず 代表的な明智家家臣について
その名前だけでも列挙してみましょう。

   明智秀満
   明智光忠
   斉藤利三
   溝尾庄兵衛
   明智茂朝
   阿閉貞秀
   津田信春
   伊勢貞興
   藤田行政
   並河易家
   松田政近
   村上清国

こんなところが、著名な武将です。
一番弟子のような家来というと、もっとも
古い家臣と思います。

りこさんが、もう少し取材されて、先祖の姓名
なりを教えていただければ、まだ調べる余地が
あります。

本日は こんなところです

マック

[2003年08月26日18時41分]
お名前: りこ
以前、父方の親戚の人に、
「うちの家系は明智光秀の一番弟子(家来)の子孫なんだよ!」
という話を聞き、家系図を見せてもらいましたが、
随分前の事なので名前すら覚えていません。
その人物の事について何か知っている人がいましたら
どんな事でも良いので、教えて下さい(^^ゞ
宜しくお願いします!!
[2003年08月25日19時30分]
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