記事タイトル:応仁の乱

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お名前: 美里   
初めまして・・・京都からです。実は今日京都では晴天の下

時代祭が執り行われました。ところで私は今回初めて知った

んですが、今まで行列の中に「室町時代」が無かったそうで

す。それで2005年からは加わる事が決まりました。何故

「室町時代」が無かったかと言うと、初代の足利尊氏が国賊

だったからだそうです。でも色んな寺を巡ると、結構尊氏が

建ててるんですよね。何故尊氏が国賊なのか、ここの人達な

ら、知っていらっしやると思いますので、是非教えて下さい。

[2002年10月22日 23時48分12秒]

お名前: コンコン   
応仁の乱 (1467〜77)
 細川勝元の東軍24ヵ国16万余、山名宗全の西軍11万余の大軍が、
京都を舞台にして戦いの火ぶたを切り、11年の争乱となる。
 斯波、畠山両氏の継嗣問題に端を発し、それに将軍家における
義政の弟義視と子義尚との継嗣争いがからみ、幕府内の実力者細
川勝元と、山名宗全との対立がこれに結びつき、まれにみる大乱
へと突入。
 文正2年(1467)は3月5日に応仁と改元された。したがって、こ
れ以後の一連の争乱を総称Lて応仁の乱とよぶが、戦いはいくつか
の局面によって構成されていた。まず、応仁の乱の発端となった戦
いは一般に御霊合戦とよばれている。
 正月17日、畠山政長は自邸に火をかけ、鴨川を一気に駆けあがっ
て、現在、京都市上京区御霊堅町に鎮座する上御霊社にたて籠った
。つき従う兵は2千である。政長の挙兵を知った政長の一族畠山義就
は、手勢3千を率いて18日の早朝、上御霊社の御霊の森を攻めたてた。
しかし、政長側もよく守り、勝元の援軍を待ったが、勝元側としてみ
れば、ここでうかつに兵を出せば、ただ挑発にのるだけだと判断して、
救援にはおもむかなかったのである。
 敵味方に戦死者数十人を出して、翌19日未明、政元は拝殿に火をか
けてどことも知れず落ちのび、結局、第1ラウンドは山名方の勝利で
終わった。山名方の召集した兵が分国に帰ったため、洛中は再び平静
をとりもどしたが、地方で両軍の属する大名同士の間に小競り合いが
展開されることになった。
 まず赤松政則の一族政宗が播磨に侵入し、さらに山名の分国である
備前、美作を荒らした。また、斯波義敏の被官は、義敏のもとの分国
である越前・尾張・遠江の3ヵ国で撹乱をはかり、斯波義廉の被官と合
戦をしていた。
 こうして戦いの火ぶたは再び地方で切られたわけであるが、次第に
両軍の兵は京都に集まりはじめ、5月15日ごろからは、京都において両
軍の小競り合いがおこるようになった。
 5月24日、東軍の成身院光宣が行動をおこし、西軍一色義直邸に隣接
する土倉正実坊を占拠した。つづいて一色邸も占拠し、細川勝元は足利
義視を今出川の邸から幕府に移し、自ら幕府の四足門の内に本陣を備え
た。
 地理的な関係から、幕府を本陣とする細川方が山名方より東にあると
ころから東軍と称し、山名方は西軍と称した。
 実際の激突ほ5月26日の明け方から27日の夕方まで2日間続き、雌雄は
決せず、京中の寺や民家など多数が焼かれ、守護の居館、公家屋敷も多
く炎上してしまった。
 その後は大規模な市街戦はなく、全体としては東軍優位の形勢であっ
たが、のち大内政弘が西軍に加わり、西軍の旗色がよくなり、劣勢を挽
回した。両軍の小競り合いは続いたが、10月3日、西軍は細川邸と幕府の
分断をはかろうとして、幕府の北隣にある相国寺に猛攻を加え、いっぽう
細川方も、相国寺を敵にとられてほ危ないというので防戦につとめた。世
に相国寺合戦といって、応仁の乱の一つのビークとなる戦いであった。
 それからは一進一退を続け、長期戦の様相を呈したが、文明5年(1473)
ごろになると、合戦はほとんど行なわれず、同年3月19日、西軍の主将山名
宗全が死に、続いて5月11日には東軍の総帥細川勝元も死に、東西の両雄の
死によって、諸将は兵をおさめて帰国していった。以後、京都を中心にした
戦乱は地方に拡大し、幕府の威令が行なわれなくなった。

新人物往来社編「図説戦国合戦総覧」より

[2002年7月15日 22時39分15秒]

お名前: 彩やん!   
応仁乱の事について知っていたら教えて下さい。お願いします☆なるべく早く

[2002年7月11日 20時5分55秒]

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