吉田松陰 その28 野山獄中の日々に *[2]* ある意味で楽天家とさえ言えるほどに、事態を素直に受け入れ、その時その時 を精いっぱい誠実に生き、決して明日への思いを失わない松陰であったが、この 時期、彼の念頭から離れない心の深い痛みは、岩倉獄に入った金子重輔のことで あった。 江戸の獄中以来の病で、今は重体の身を別の獄舎に横たえている重輔への思い は、情誼(じょうぎ)に篤(あつ)い松陰にとって耐えがたいものであったが、 今は励ましの言葉をかけてやることすらかなわない。その重輔が、年が明けて間 もなくの安政二年(1855年)一月十一日、獄中に二十五年の生涯を閉じた。 「身も世もなく嘆き悲しむ」という言葉があるが、重輔の死を知った時の松陰 の嘆きがまさにそれで、はた目にも痛々しいほどの悲しみぶりであったという。 そして松陰は、一ヶ月の間、自分の食事から汁と菜を省き、その食費に充てるべ き金を蓄えて、これを重輔の遺族に贈り、墓石建立の一助にしてもらうのである。 また松陰はこの時、「獄中、渋木生の赴(ふ)を聞く」と題する慟哭(どうこく) の詩を作っている。渋木生とは、いうまでもなく渋木松太郎、金子重輔の変名で ある。その詩とは、 「駅舎君と訣(ゆか)る/匆々(そうそう)詞を尽くさず/囚繋(しゅうけい) 各所に在り/消息相知らず/江海呑舟の魚(どんしゅの魚とは、舟を呑むほどの 大きな魚、転じて善悪ともに大人物、大物のこと)/徒(いたず)らに半畝の池 に困(くる)しむ/篭鳥故林を失ひて/未だ群飛の時を忘れず/鼓角自ら晨暮( しんぼ)あり/会見期を知らず/夢魂尚ほ相逐(お)ひ/訃(ふ)を聞いて却っ て自ら疑ふ/豈(あ)に計らんや生別離/更に死別離と為(な)らんとは」 というもので、獄舎を異にして以来、何らしてやることもできなかったことへ の痛恨の思いが綴(つづ)られている。 後年の事跡が語るように、松陰は門下生を友として、ことのほか厚い情を通わ せている。重輔は、まさに松陰にとって最初の門下生ともいうべき存在であり、 一大決意の行動を共に決行した同志である。その嘆きのほども察するに余りある。 そうした松陰の心情は、同獄の人々にも少なからぬ印象を与えるものであった。 いかなる社会にあっても、古参組は新参者に対して、どういう人物かという興味 を持つものである。まして変化のない獄舎の生活において新参者は興味の対象で あるが、友に対する松陰の情誼の深さは、とかく愛情に飢えた野山獄の人々には、 新鮮な感銘を与えたに違いない。同獄の人々の目は、次第に松陰というただなら ぬ青年に向けられ、また心ひかれて行くのである。 |