吉田松陰 その23 決然、国禁を犯す *[1]* 松陰は大いなる決意をもって九月十八日(嘉永六年)、長崎への旅に発(た) った。いや、その目的からすれば、はるかなる外国への旅立ちでもあった。 彼は途中、京都に立ち寄り、十月八日、大坂から船で瀬戸内海を渡り、十九日 に熊本へ着く。その熊本では、盟友・宮部鼎蔵を訪ね、また宮部と同道して肥後 の横井小楠(しょうなん)などを訪ねている。 そして目的の長崎に着いたのが同月二十七日。その時、すでにロシアの軍艦は 出港してしまった後であり、海外渡航への願いは不発に終わってしまうのである。 目的を持った旅にしては、いささか日数をかけすぎた感がある。この点、松陰 の心の中に、実行を逡巡(しゅんじゅん)するものがあったのではないか、とい う古川薫氏の指摘も無視できない。 確かに、「長崎紀行」に記された彼の行動は、目的に向かって一途(いちず) に駆けつけたといったものではない。もちろん「長崎紀行」の冒頭に、 「嘉永癸丑九月十八日、晴。江戸を発し、将に西遊せんとす。是の行は深密の 謀、遠大の略あり。象山師首(はじめ)之れが慫慂(しょうよう=傍から誘いす すめること)を為し、友人義所(鳥山新三郎)・長取(永島三平、熊本藩士)・ 圭木(桂小五郎)も亦之が賛成を為す」と記している。 さらに出発に当たっての想(おも)いを、「名利世上に求るに心なく/一生人 の尤(とがめ)を被(こうむ)るを顧みず/獨り悲しむ駑駘(どだい=のろい馬、 転じて才能のない人のこと)報恩の計/詭遇(きぐう=変則的な方法によって事 を行なうこと)して常に君父の憂となるを」という詩に託している松陰に、決行 の決意がなかったとはいえないまでも、江戸出発後もなお多くの先賢に会って心 の整理をしたかったのであろうか。 「長崎紀行」は、これまでの彼の旅日記に比べるとき、日々の記事においては 極めて簡潔で、行程と出会った人の名を記すに止め、特別の心情はもっぱら詩( 十三篇)に託しているのみである。長崎で目的の船が、すでに出航していること についての記述も全くない。 いわば密航を秘密として意識的に記述をさけたとも考えられないではないが、 「十一日(十一月)、赤馬(間)関に帰り、伊藤氏(静斎)に宿す。十三日、萩 に入る」の記事で終わるこの旅は、いささか龍頭蛇尾の感を免れないのである。 しかし、無為に終わった感のあるこの度においても、熊本滞在中、宮部の斡旋 (あっせん)によって肥後藩の要人二十数名と接触し、またいったん萩に帰省し た松陰を追って宮部が萩を訪れた際など、彼を長井雅楽や玉木文之進らに紹介し、 松陰の持論である雄藩提携への推進を図っていることも見逃してはならない。 |