吉田松陰 その15 憂国の士への旅程 *[2]* 九州遊学の翌年、嘉永四年(1851年)に入ると、早速、藩から軍学稽古( けいこ)のため江戸差登(さしのぼり)はどうか、という打診があった。 この年の三月、藩主・毛利敬親が参勤交代で江戸に上ることになっており、そ の機会に遊学生二十人ばかりを行列に加えて、連れて行こうというのである。 もとより松陰の願うところであり、直ちに藩士・中谷忠兵衛の「御連登(おつ れのぼり)」に同道して東上したい旨の願いを出し、二月十五日にその許可がお りた。「御連登」は、藩主のお供として参勤の列に加わって行くことであるが、 松陰たち遊学生は、藩主の行列に正式な形では加わらず、藩士の食客として行程 を共にする「冷飯(ひやめし)」の立場で、東上することになる。人材育成に熱 心な長州藩では、こういう形をとって多くの有為な若者を江戸に遊学させ、勉学 の機会を与えたのである。 松陰は藩士・中谷忠兵衛の「冷飯」として東上するが、一行の中には、のち楫 取素彦で、松陰の妹と結婚した小田村伊之助、明倫館で活躍した浩堂こと中村百 合蔵、やがて松下村塾の主要メンバーとなる中谷正亮らも加わっていた。 松陰たちが江戸へと旅立ったのは三月五日であったが、その出発に先立ち、天 保改革を主導した藩の長老・村田清風も、松陰の前途を嘱望して、激励の手紙に 添え「砲技に達せざれば以て兵を論ずる勿れ。孫呉(孫子・呉子)に通ぜざれば 以て砲を譚(たん)ずる勿れ」と誌(しる)した詩を贈っている。 砲技は今日の急務であり、これを知らないで兵を論じることがあってはならな い。しかし、孫子・呉子など兵の根本原理を明らかにとらえていなければ、砲技 も空(むな)しい未技である。という意で、松陰もこれに対して「尊語一葉御恵 投仰せ付けられ欽領(きんりょう)且つ服膺(ふくよう)仕り候。芳翰中、“時 や失ふべからず”の一語、頂門の一針と厚く忝(かたじけな)く存じ奉り候」と 礼状を書き送っている。 村田清風は、財政の改革ばかりでなく、人材の育成にも力を注ぎ、また松陰を よく理解してくれた人物であった。のちのち松陰を、陰に陽にかばってくれた周 布政之助も、この清風の門下生であった。 三月五日に萩を出発して四月九日、江戸に着くまでの道中事情については、松 陰が書き残した「東遊日記」によって知ることができる。特に三月十八日、湊川 (兵庫)に至り楠公・楠正成の墓に参拝したのが印象に深かったのであろう。数 日後「道のため義のためにす豈(あ)に名を計らんや、誓って斯の賊と生を共に せず。鳴呼(ああ)忠臣楠子の墓、吾れ且(しばら)く躊躇(ちゅうちょ)して 行くに忍びず。(以下略)」といった詩を作り、兄・梅太郎に書き送っている。 |