吉田松陰 その12 対外危機感の高まり *[4]* 松陰が北浦巡視を行なった前年の嘉永元年(1848年)に、彼は明倫館の正 式な兵学師範となっていた。 中国一円、百二十万石の太守として西国に覇を唱えていた毛利氏が、関ヶ原の 戦いで西軍豊臣方に加担して敗れ、わずか防長二州三十六万石に削封されて以後、 藩政の二本の柱として揚げられたのが、財政の立て直しと人材育成であった。そ の一つの表れが享保四年(1719年)一月、五代藩主・毛利利元によって創設 された藩校・明倫館であった。 以後、代々の藩主も明倫館の充実を図り、百三十年の歴史のもとに国内でも屈 指の規模を誇る藩学となっていたが嘉永二年(1849年)、さらに学制の統轄 を進めるために、学館を萩城南の三廓内から城下の中央部、江向一万五千百八十 四坪(五○、一○七平方メートル)の広大な敷地に移転拡張され、文学、兵学各 般にわたる総合的な学問所として充実をみた。 その明倫館の名称は、藩の儒者・山県周南の撰(せん)によるもので、孟子の 「人倫上に明らかにして、小民下に親しむ」から取られ、学風は初代学頭・小倉 尚斎のもとで朱子学が講じられたが、二代学頭・山県周南によって古文辞学に改 められた。そして松陰が明倫館の独立した教授となったこの時期には、学頭・山 県太華のもとで再び朱子学中心に改められていた。 いわゆる古めかしい訓詁(くんこ)の学風を重んじ、幕末動乱期には学生が時 局を論ずることを禁止するといった、封建的な校風であった。 学頭の山県太華は、中央の学界にも名の聞こえた儒学の権威者で、防長の地に 一大学閥を形成していたが、その学閥とは無縁に成長してきた松陰は、ある意味 でアウトサイダー。まして、朱子学だ、陽明学だといったことにこだわらず、あ らゆる学問の良いところを取り入れようとする実学的な姿勢を持ち、海外への関 心を深めている松陰にとって、この形式に縛られた明倫館の学風は肌に合わず、 北浦巡視後、松陰は九州への遊学を志す。 それは、あくなき知識欲の表れであると同時に、明倫館学風に代表されるとこ ろの封建的学問からの脱出でもあった。 九州の平戸藩には、松陰が家学とする山鹿流兵学の本流・山鹿万介がいること から、軍学稽古(けいこ)という大義名分を立てて藩に九州遊学を願い出、嘉永 三年(1850年)八月、ようやく旅行の許可を得た。遊学の期間は十ヵ月とい うものであったが、松陰の学問は、この九州遊学によって、また大きく飛躍する。 そして以後、松陰の生涯は、この初旅を含めて八回の旅と幽囚の日々によって 綴(つづ)られてゆくことになるのである。 |