お名前: 江戸通
マックさん、レスどうもです。
>「五日の内に、5万貫を沙汰すべし」
一桁間違えているのでは、とか意見が分かれるところですね。
慶長年間には、下野の国の石高は、37万石余りとあり、
室町初期には、だいぶ少なかったとは、おもいますよ。
ちなみに、銭壱結いが、壱貫で銭一千枚だったありました。
新田庄は、一族の岩松氏、その家臣格の由良氏と戦国期には、
継承されています。
女性で活躍した武将も案外有名でした。m(__)m
江戸通
[2010年04月22日07時49分]
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お名前: マック
うーーーむ
> 「五日の内に、5万貫を沙汰すべし」
うろ憶えで、確かではないのですが、たしか
1貫は、15万円だったけ???
そうすると5万貫というと、75億円かな??
うーーむ、自信はないけど。
たしか1貫は、1石で、そうすると1貫の所得を
得るためには、5公5民として、2石必要である。
仮に5万貫の年間所得を得るためには、10万石
必要になる。10万石というと、動員兵力3000名
でアル。
話は変わるけど、
平安時代、下野の両虎といえば、藤原姓足利と小山氏
なのだ。両者の勢力は互角だった。
だだし決定的に異なるのは、所領の形状デアル。
小山氏の所領は、下野、武蔵とに、南北に細長に
伸びていた。
藤姓足利氏は、下野国に、まん丸い形状だったのだ。
平安時代に藤原姓足利氏の当主は、決定的なミスを
する。
当時のスーパースター源義家に別荘と一族の美人を
寄贈したのである。その邸宅と付属の土地が、未開墾
といえども勢力圏の中心にあった。
当時、政治的な意味合いで、
これで下野国最強は、藤原姓足利になるはずだった。
しかし義家の遺児が出戻ってきて、
その子供の新田氏と源姓足利に、全部、食べられちゃった。
不運である。
面白いことに
その後、下野を代表するのは、小山氏だということ。
[2010年04月18日10時57分]
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お名前: 江戸通
近年発掘され、国指定の新田郡庁を始めとする、新田太郎義貞ゆかりの
史跡を見て来ました。
八幡太郎こと源義家の苗孫、新田義重を祖とする新田家の太郎です。
新田義重は、近くに荘園がある、足利家とは、立場が異なり、長系で
ありながら、源頼朝挙兵のおりに、遅参し、また動員した兵も百騎あまり
ということで、将軍近習の足利家と地方の豪族という立場になりました。
新田郡の世良田にある長楽寺は、関東随一の禅林で、四日市の繁盛も
抜きん出ていたので、北条高時から、「五日の内に、5万貫を沙汰すべし」という
使者を迎え、かねてから、後醍醐帝の綸旨を受け、病と称し逼塞していたものに、
使者が、「大勢を庄家に放ち入れて譴責する事法に過ぎたり」と云々。
「我が舘の辺を雑人の馬の蹄にかけさせつる事こそ、返す返すも無念なれ。いか
でか見ながらこらふべきか」と使者を討ち取り、世良田の里中に首を晒した、と
「太平記 巻十」にありました。
この後、足利尊氏決起の翌日、生品明神の前で、一族の大舘二郎宗氏、幸氏、
氏明、氏兼。堀口三郎貞満、四郎行義。岩松三郎経家。里見五郎義胤。
舎弟脇屋二郎義助。江田三郎光義。桃井二郎尚義、これら宗徒(むねと)
百五十騎は過ぎなかった。
一行は、北に向かい、新田郡庁あたりから山田方面に向かい、更に、勢いを増し
鎌倉攻略時には、十七万騎を超える兵を集めたということです。
当時から、世良田、江田、反町、新田と分けて言われる程の広大なところだった
のを実感してきました。
江戸通
[2010年04月14日21時15分]
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お名前: 江戸通
先日、世良田、伊勢崎、太田と歴史散歩をして来ました。
東武電車で途中下車をする形で、名所をみてきました。
まず、世良田では、世良田東照宮に行き、新田庄歴史資料館と巡り、付近の
名所を散策。
伊勢崎では、一時間程滞在、太田では、駅前の新田義貞と脇屋義介の銅像
を見学しました。
今回は、江田館や、反町館跡、生品神社と言った新田義貞所縁の場所は訪れません
でした。
世良田では、あの有名なポーズをする銅像も見学しました。昼食を取ろうと
したら、有名なうどん屋が、以前あったと思ったら見つからず、別の場所で、
豪華、相田みつお風蕎麦御前を頂きました。
松平.徳川家では、世良田を姓とした人が
世良田清康 松平清康
松平忠吉 世良田下野守
尾張七代 世良田 糸周(一字)誠
七代将軍家継 幼名 世良田鍋松君
と4人いたそうです。
先祖の得川氏が、時の足利幕府に圧迫され、三河の松平に流れ、
松平家に入り婿として結んだのが、現在の松平.徳川家の始まりだそうです。
三河は、南朝勢力の強いところで、同志も多かったのでしょうね。
倒幕戦では、付近に住む一族、200余人を始め、近在の衆4000人が、
各地を転戦し、故郷には帰れなかったとありました。
江戸通
[2010年02月28日07時37分]
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