テーマ:歴史散歩】国府台から手児奈

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お名前: 江戸通
 同じような所を横に歩いてみました。
 
「郭沫若記念館」 真間
 四川省楽山県の人幼名を「文豹」 本名 開貞
 官費留学生として来日、宮城県の看護士佐藤をとみと知り合い、
 日本に暮らす。
  昭和2年の「国共合作」が破綻し、結果として日本に亡命。
  日本滞在中に金字塔とも言う、「殷周期青銅器銘文」「甲骨文字研究」を刊行。
 昭和13年 日中戦争激化に伴い武漢で共産党軍事委員対日宣伝を担当。
  昭和53年逝去
  昭和59年 をとみが多額の日本円を献納。後上海上級看護士形態訓練室開設に
   資金となる。
  平成6年 をとみ 没。
  平成18年 「郭沫若記念公園」開園
  と云々。

  さだまさし氏寄贈の「長江」製作記念「楽山大仏」(写真)
  毛沢東  手紙 レプリカ
  周恩来  手紙 レプリカ
  
 など多数ありました。
   ほど近くには、国府台から移設された下総の総社「六所神社」があります。
  国府が近いので、移設されたというのは、旧国がの全容の手がかりとも言える、
  由緒をもつ神社でした。

江戸通


[2010年03月26日20時32分]
お名前: 江戸通
 この国府台合戦と手児奈については、万葉集以外にも
色々な文書が残っている。
 鎌倉八幡宮の若宮文書や松平義行所蔵文書というのを歴史家、千野原氏は
掲げています。
http://wapedia.mobi/ja/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%BE%A9%E8%A1%8C

 他、様々な軍記物や、アニメにまで多彩な書物が出され、「南総里見八犬伝」
などにも資料は明記されていないが、かなり迫真の記事があるようです。
 信憑性が高い、「若宮文書群」では、豆相蔵5千余騎(相模、武蔵、伊豆)と
両総一千余騎が争い、宿老逸見祥仙入道以下、主だった家老を含め或いは、自腹を切り
戦闘で無くなったとされています。
 第一次国府台の合戦では、六千人が戦い、二千人以上の死者をだした、とされていますが、
近代の総力戦でも見られない、現象があったのでしょうか?
 近年、長谷山本土寺(ちょうこくさんほんどじ)の過去帳が公開され、今のところ、
評価や、比肩されてもいないのが、現状です。
 後北条氏については、この時には、中国伝来の鉄砲の知識があったとか、取りざたされ
るようになりましたが、豊臣秀吉の時代になっても、恐らく強豪としては、
最低の鉄砲装備率であったらしく、弓組と鉄砲だあれば、弓という状態であることが、
確認できるようになりました。
 第一に、手児奈
 第二に、里見八犬伝
 
 ですね。
 この他、近くの須和田には、人民文化委員を長く務めた、「カクマツジャク」氏の
旧宅もあり、氏の文化大革命の荒波を乗り越えた文化への息吹も感じることができます。

 江戸通
[2009年10月29日21時32分]
お名前: 江戸通
 東京にも同じような名前があるのでしょうが、
江戸川の一番深い淵あたりを、安房里見家のものが、
国府台の合戦のおり、陣鐘として松の枝に鐘を吊るしたところから、
「鐘懸けの松」と「鐘が淵」と呼ばれるようになったそうです。
 慌しく、上総まで撤退した為、鐘は、江戸川に沈んだのが、この
名前の由来だったそうです。

 今は、松の木は崩落の影響で跡形もなく、何処だったかも解りませんが、
近くに総寧寺の境内にあったという夜泣き石と里見諸将の慰霊碑が残されて
いました。
 隣接する総寧寺は、日本の麻薬王、里見甫(さとみはじめ)の墓や、
藩主の墓などがあり、関東僧録司三ヵ寺の一つで、開基は、佐々木氏頼
(ささきうじより)という六角氏の近江守護で、近江にあったものが、
各地に移転し、この国府台に落ち着いたものだそうです。
 そこから、国鉄の駅の方へ、歩き、真間山弘法寺に向かいました。
この弘法寺は、天平年間、行基が、求法寺として建立したもを、空海が、
「真間山弘法寺(ままさんこうぼうじ)」とし、後、天台宗の寺院と
なっていた。
 鎌倉時代になって、富木常忍(ときじょうにん)が、天台宗との法論
に勝ち、天台宗が去ったという経緯がある。
 さらに、駅に近づくと、手児奈霊堂があります。
 「万葉集」にも詠まれた、真間の手児奈の霊を祀るところです。
 行基もこの「手児奈」の霊を慰める為、当地に赴き一堂を建てたと
言う事らしい。

  なんだ、最寄駅まで歩いたのか?
  そうです。2時間懸けて遠い方の最寄駅まで歩いて見ました。

 江戸通
[2009年10月29日00時40分]
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