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お名前: ダブルスタンダードについて
 いきなり、竹島(ドク島?)問題にリンクかな?
http://www.sk-jp.com/mt/philosophical/archives/2004_06/30_003017.html
 明らかに、ダブルスタンダードですね。
 この、ダブルスタンダードと言う言葉、扱いが難しいですね。
 このトピで取り上げた、ダブルスタンダードは、
 湾岸戦で多用された、アメリカの戦術からの用語「ダブルスタンダード」
からです。
 意味は、砂丘の上(淵)からの視点と砂丘の底からの視点を同時に理解する事。
 昔のSFの世界でしか使われる事の少なかった用法です。
 有名な「デューン」で主人公ムアドディブ(砂漠のネズミ)ポールが、戦術で
 重視した用例が有名です。
  第一次湾岸戦では、M1戦車に対して、東欧製の比較的古い戦車を陣地として
 使い、地形を生かした配地をして、強固な防衛網を作り上げました。
  是にたいして、アメリカ軍は、衛星探査にによる、大雑把な敵戦車の位置把握
 と高性能センサーを多用し、最終的には、操車陣の速射能力により、戦線の突破
 をしました。
  衛星探査では、毎秒20Mから40Mという移動速度の戦車に対応は出来ず、
 高性能センサーでも、移動しない戦車には、反応できず、この組み合わせと、
 「早撃ち」の技術で、難攻不落と言われた防御陣地を、世界的な記録を出し
 ながら、破壊し、イラク中枢も戦局を把握するのに、突破後、一週間を要した
 と言われています。 
  幕末、4カ国連合艦隊の派遣をみながらも、対ロシアにには、強硬策を維持した
 諸藩も多いなか、門弟数千人を動員して、ロシア研究を実施していた、平田門下生
 の活躍は、近年、「歴博」で知りました。

  江戸通


[2008年07月21日10時38分]
お名前: 江戸通
 木戸孝允のこと
 藩論が「進発」に傾いた元治元年(1864年)情報収集の為、
京都に潜伏を藩命に従って実施。新選組の探索が厳しく、大阪から
対馬藩士「林竹次郎」を名乗り、対馬藩邸に匿われる。
 池田屋事件、禁門の変と相次ぐ政変のなか、新選組の追及を逃れる
為の対馬藩邸通いが、対馬藩邸から出られなくなる。
 京、三本木の芸者「幾松」が食糧などを届け、京に潜伏を続行するも
追及が甚だしく、兵庫の出石に難を避ける。
http://www.izushi.co.jp/gaiyo/index.html
 対馬藩出入りの商人、広戸甚助より名を仮り、「広江考助」と名乗る、
しかし、新選組の探査が、出石にも及んだ為、対馬藩邸に逃れた。
 この時、長州藩の軍事の実権を握った「大村益次郎」が、事の経緯を
知り、京都の幾松を使いとし、出石に向わせ、翌、慶応元年、
「政事堂用掛、国政方相談役」として山口で執政を行なった。
 改めて木戸孝允は、藩の軍事の全権を大村益次郎に任せた。

 参考文献 月刊「松下村塾」vol.12 吉田松陰と木戸孝允(桂小五郎)
 
 小五郎を送るの書

 「わが友、桂小五郎は、偉くなっても大きな口をきく人ではないと
  信じている。軍事に精通していることも知っているが、国を守る
  ことは本当に重要だから、つたない知識だけで行動し、後悔する
  ことのない人生を送って欲しい」

  と実学を掲げた吉田松陰の言葉である。


  謹啓
   江戸通

[2008年07月17日21時25分]
お名前: 江戸通
岩波日本史辞典から。
 
********
 対馬藩 
対馬府中(現長崎県厳原町)に藩主居館を置いた外様藩。府中藩、厳原(いずはら)藩とも。
対馬島および肥前田代一万石のほか、肥前、筑前、下野に飛地2万石を領有。朝鮮貿易等を
合わせた収入が十万石に相当。藩主は鎌倉時代から対馬島に定住して島内を支配した宗氏。
宗義貞のとき録制を確立、城下町府中を整備、義方のときから十万石格を称す。
 18世紀半ばから私貿易衰退により、財政逼迫、幕府から毎年一万二千両のを受給。
幕末期には、尊攘派・佐幕両派が激しく抗争し、長州藩と同盟した。中世以来の日朝外交
貿易の実績を背景に釜山倭館での朝鮮貿易・外交・朝鮮通信使催行など、朝鮮折衝に於ける
実務を担った。1871年(明治4年)宗義達のとき廃藩、厳原藩となり、伊万里県、
佐賀県を経て、72年長崎県に編入。
***********
http://www.marupu.com/main/index.html
  最近、フェリー航路が新設され3つの航路が日本から行けるようになって
いるようです。

  江戸通
[2008年07月17日06時36分]
お名前: 江戸通
 個人的には、対馬府中城主、宗対馬守だと思うのですが?
http://masai0123.exblog.jp/9189687/
 対馬の領主にして、鎌倉以来、対馬に君臨し、対朝鮮貿易を
ほぼ独占した。
 宗その人こそ、「ネットワークのネットワクークス」だろ!
http://www4.diary.ne.jp/i_log.cgi?user=413786&log=200511&start=2
 提案型の非政府系の家臣団、例えば、早田家などが、朝鮮で活躍した
宗家は、江戸時代には、本領対馬が、2千石余の生産力しかない為、
 天領日田、下野対馬領などが宛がわれ5万石余の領主であり、
朝鮮貿易の独占を資力として、十万石の格式を得た、宗家です。
 禁門の変のおり、鴨の河原から木戸孝允を、連れ去り、
山口の藩庁に両人に抱きかかえられるように寄り添って、
藩庁出仕を果たさせたのも、「宗貞宗」の遺訓では?
 http://www.google.co.jp/search?hl=ja&lr=lang_ja&q=%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%81%AE%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%80%80%E5%AE%97%E5%AE%B6&start=40&sa=N
 確かに、対馬が、倭寇の地として注目されると、
わこうは、壱岐を根拠地にするのが恒でしたね。

 謹啓 m(__)m
  江戸通
[2008年07月16日21時59分]
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