テーマ:簗田家文書

書き込み欄へ テーマ一覧に戻る
お名前: 財産目録のこと
 明治7年に、当時東京都府知事に提出した家産目録から、
 浅草小島町XXX
  東京府貫属
     士族
  家禄現米拾六石 簗田順直
 今般、御希告の趣茂御座候間、家禄奉還仕度、
 この段奉懇願候、以上

 この簡潔な文章が採択され、長く関東の乙名、名門の家産は、東京府(?)に
 返還され、封建的封土が解消されています。
  或いは、宿老として、関東公方の側近として関東の武士を束ねた、
 余呉将軍家は、僅か十六石の家産だったとは?
  本来は、日本史のトピとすべきでしょうか?
 なお大久保一翁とは、徳川慶喜の側近大久保家の人で、大久保利通では、
 ありません。m(__)m
>お寺に頼まれて深夜に電気を消して気分を出しながら戒名データを打ち込んでいたとき
>くらいのインパクトあります。
 明治政府は、いちいち、この木は、作座衛門、越路吉とかやらないらしいですね。

 江戸通

  
[2007年11月10日00時54分]
お名前: 悪魔審問官的発言!
 本題とは、ちょと離れた話に沢山のササクレーションです。
余吾将軍家である簗田家は、私合戦の鏡として武家では、尊ばれて
いるのは確かです。そっちから。
 足利荘を預かった、八幡太郎義家系は、後三年の役を陸奥守でありながら
私合戦と見なされ、武家の棟梁の地位を高めながら、財産は殆ど無くし、
京都で問題を起こしながら関東では、要衝と言われた足利に半ば、遠留状態
にされた、武家としての地位と公家として摂関家との結びつきを得た訳ですが、
 平維茂という「私合戦」のプロとは、趣が違ってくるのも当然でしょう。
 上記は、文書としては普通でも、だいぶ、逆相的(新しい言葉を作ってしまった)
な公武関係を解りやすく言ってしまってますね。
 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/1235/shiseki.html
 実際に、禁教政策となったのは、「岡本大八事件」によりポルトガルと
戦争に持ち込んだ、有馬晴信と幕府与力岡本大八が紛争になり共に、キリシタン
だった事から、禁教令の発動、大弾圧となっていくようで、それまでは、
太閤の「バテレン追放令」的な、禁制ですから!
 正使であったマンショは、大友宗麟とも親戚で、ミゲルとなると武家の
キリシタンという事になりましょね。
 先生の本は厚くて、読むのが大変なので、書いてあるかも知れませんが、
歴史としての価値より、他の専門の重視ではないでしょうかね。
 大友宗麟は、取り巻きを敬遠して禅宗の僧侶になったと。ありますよね。
 たまに見かける、禅宗寺院で写経をしたり、座禅を組む西欧系の人は、
無宗教の人もおおいでしょうが、ヨーロッパは、やはりキリスト教の影響
がある人なんだと感じます。
 紹介したURLにありますが、岐部ペトロと言う人は、「歩く人(ひち、ひど
ではなくひと)」という宗教的評価ですから、必死でローマを目指し、
キリスト教を広め、仲間を助けようとする精神だそうです。
 一歩まちがえても、泥沼のような、話ばかりですね。

  江戸通


 

 
[2007年03月21日18時56分]
お名前: ヘイ
>ミゲル    不明

千々石(ちぢわ)ミゲルは棄教してキリスト教徒を弾圧する側に回ったようですね。

あんまり面白くない話だから、不明としておいたのかな?


[2007年03月19日21時47分]
お名前: それはそうとね
 「OUTAKE RELOAD」 綴りについてクレームが
ありました。OUTAKE RELOADED だっす。
なんか、英語っぽくてさー抵抗あったんんだけど。
 ごめんなさい。江戸通
[2007年03月15日20時44分]
お名前: また、蛇行的閑話
 天正遣欧使節は、時の教皇グレゴリウスから
涙を持って迎えられたと記録にあります。がっこの
美術の先生が詳しい話を出版してました。
 それによると、
  マンショ   42歳で病死
  マルティーノ 国外追放によりマカオで死亡
  ジュリアン  国内潜伏中に発見され処刑
  ミゲル    不明
 九州の三人の王が、派遣した使節の行く末を予感したのでしょうか?
 カトリック教会を離脱したイギリスの代りが、遠方からやってきた
 と紹介され、三人の王に感謝するという声明だだされているそうです。
   美術の先生は流石としかいいようがないですね。現地の資料を駆使
 して解りやすく「クワトロラガッッイ」を紹介しています。題名も左。
  後に日本では、極めて珍しい離散家族問題は、マカオに発生した理由
 がよく解りました。
  悪戦苦闘しているのは、何故なんだろうと思いますね。
 「蛇足」
  現在、この初期の殉教者を含めた人々を「福者」に推挙しようとして
 いるようです。別に「マザー.テレサ」の案件がばかりが話題になって
 いましたが、部外者であるものがカトリック教会について、知ることになる
 数少ない案件の一つなので、感心を持つのもいいでしょうというのが、協議会
 の意見のようでした。まー、多少の係わりはあるのでしょうが、各教会が
 取り組んでいるのとは、訳がちがいます。
  列福は、岐部ペトロですよね、幕末から明治にかけて、
 木戸孝允が、取り組んだ問題とは一応、別個の扱いなんでしょうね。?
  ペトロというと、魚の紋章で知られる、唯一教会の継承者と言う語感
 が感じられますね。
   
  江戸通
  

[2007年03月13日18時14分]
お名前: 量が多くて大変ね。
 さて、本題の「簗田家文書」ですが、
総計87点にも上るもので、他に所載のないものも多くあった
ようです。
 1 起請文 12点 (北条家、近衛前久、武田信玄)
 2 書状類 25点  (簗田持助、足利政氏他)
 3 系図、過去帳
 4 由緒
 5 給地支配   下総足川村周辺の検地水帳
 6 家禄、家督  明治政府の提出した明細書
 7 簗田家紋本他
 となります。
 苗字の由来となった簗田は、現在の東武線「ふくい」と「あがた」
の間あたり、渡良瀬川の南辺になります。
 「与吾将軍系図」とによると恒武平氏で鎮守府将軍平維茂の子、良衡
を祖とし、鎌倉公方足利氏のもとで繁栄し、北条家の圧力で、茨木県総和
あたりにあった本拠から、関宿に移ったとあります。
 関宿にも、近衛前久の書状(起請文)が残されていましたね。
 やっと、斜め読みに成功しました。なんとも、近衛さんは、関宿でも、
梵天、帝釈天、惣而日本国中大小神祇お願いねとやっていたのはよくわかり
ました。虫師じゃないんだから、お払いやっててどうすんだって言う感じです。
 ところで、現代、吉良の所領であった三河吉良では、吉良城が再建されて
いますね。承久の乱で、得た所領に建てられた砦跡を作ったそうです。
 何故か、この時期の遺蹟は再建されたところ、無条件で面白いという評判
でした。滋賀県守山、栃木県栃木、愛知県吉良とこの「簗田家文書」は、
鎌倉公方から北条家へ権力が移る時期のものが多いので、直接はまあー影響
もないでしょう。

  江戸通
[2007年03月11日18時41分]
お名前: 「あそうそうとね。」
 えー、ポカですね。(>_<)
 九条道家の実子ですから摂家、藤原頼常ですよね。
 次の五代将軍もこの頼常の実子で、執権北条泰時が若年だった
事を配慮して、将軍職を譲っていても、京都では、親幕府の大者
ではありましたね。
 ここで、蛇足。
 休みの日に、朝TVでやっていた、おしゃれ魔女「ふたりはプリキュア」
がスペインで放映される事が決定したようです。
 このこともあって、私も「クワトロ」TVの関係者らしいい人を見ました。
スペインでは、「OUTAKE RELOAD」と言うタイトルで、放映される
ことに決定したそうです。
 ガックリ。スペインのガキどもにも、「OUTAKE」の連呼現象です。
あくまでも、「プリキュア」が主役ですからね。
 「クワトロ ラガッティ」を天正遣欧使節と訳して見ましたが、ラテン語では、
「4人の少年」の意味しかないそうです。ただ、語尾やクワトロの言い方で、
4人の少年よ、とか、4人になれ少年と変化するんだそうですね。
 なんでも、最近では、ラテン語がわかる人は、日本の大学では、
年間数人だそうで、あとは、アテネフランセの簡単な語学講座があるだけで、
解るとうこよはとってもできない相談だと理解しました。
 「OUTAKE」は今回は、スペイン語だそうですが、イタリアでも、
プリキュアは放映されるので、似た表現もでるでしょうね。
 もう、数年足利に入っていませんが、ここ十数年間、そもそもスペイン問題
ではあることは承知しています。まー。知ったことではないですが。
 インターネット上で、
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/index.htm
 まあ、ここに詳しく乗っている事は勝手に調べてみてちょ。
「ペトロ岐戸」であります。(ーー;)

  江戸通

  江戸通
[2007年03月10日00時54分]
お名前: 「あれから」
 本日、岩波日本史辞典を読みながらの感想。
 藤原頼常の関東下向に従った勧修寺重房が、丹波の国、上杉荘を下され
上杉を名乗り、名目上は、将軍近習として源家の遠戚として同列の扱いが
鎌倉期を通じて、対処したようですね。
 源実朝が暗殺された時、実権を握っていた、北条政子の呼びかけに答える
形で、挙兵し京都の政権を打倒した、とあります。
 高師直、師冬を実質てきのは、打出浜で上杉家が、打倒し、この罪により、
足利家の執事となり、足利荘を含める下野国、一帯を上杉家が被官として、
修める事になりました。
 幕政上は、あくまでも、近習として二番足利某、4番上杉某ということでした。
ところが、諸説ありますが、現在の市役所か、中学校あたりに城郭が建設
される頃から様相が一変します。
 それまで、東山道の要衝として、京都からは、足利と言えば、足利駅周辺を
指しましたが、この城郭を中心とする時期があったようです。
 足利若犬丸を、将軍義政がバックアップした時期というのがあり、奮戦空しく
多分、日光周辺まで追いやられ、足利義輝だとおもいますが、城郭と食糧備蓄の
ネットワーク構想に基づき更に北に拠点を建設し始めたあたりで、近衛前久が、
関東下向し、これらの遺産を食いつぶしながら上杉謙信を誕生させたと、現在
では考えられると思います。
>権勢を誇った高一族が滅び、天下は、実質上このいくさに勝利した足利直義の手に握られまし>た。そうです。教科書には出てこない、幻の足利直義時代が、おとづれたのです。
 そんしさんの、一文ですが、根本被官だった高家から、罪を得て執事となった
上杉家も共に、藤原家でした。荘園の成立から沽券喪失まで一時期を除いて、
源家は、経営は担っていなかったようです。

 江戸通

[2007年03月09日00時54分]
お名前: 江戸通
 「簗川両荘」という出典が未詳の言葉があります。
足利荘は、立荘当時から、両毛地方(上毛野、下毛野)にまたがる
一帯を指し、多分「延喜式」に基づいて置かれた「足利駅」周辺を
指していると思われます。
 これは、おそらく、「雅語」に近い言い方で、簗田御厨と足利荘
を一体のものとして認めるという事ではないかと考えられます。
 川は、現在の清水川で渡良瀬川のことではありません。はっきり
しない境界の問題は、当時からあったようですね。
 http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/kenko/news/20070304ddm013100002000c.html
 「4止」ということ?極めて今日的言い方ですが、これは、
藤原流の足利荘のことだった言っていいでしょう、しかし、藤原家
は、宇都宮、小山といった姓を名乗り、土着し、大勢力を維持しながら
足利荘には、関心が減ったということでしょう。
 実際、下野守の実務は、宇都宮家が執務して相伝していたのでは、
ないでしょうか。栃木(現在の県名、地名)宇都宮(現在の県都)も
宇都宮家にまつわる地名です。
 よく、お叱りを受ける一件ですが、幕末、高山彦九朗、や詩人梁川星巌
と言った尊王サロンを作った人も、足利周辺を気にかけていたようで、
明治、昭和初期にかけての、史上最大の発展は、このサロンの影響が
大きいようです。市では、田嶋草雲を掲げているようですが、大前田英五朗
が、維新に参加すべく決起しようとした時、「大きな力」に翻弄されたと
していますが、3000人の子分と200人を越える草莽隊を越える
一大勢力は、幕末にも存在し、維新の原動力となったようです。
  蛇足
 4というのは、クワトロのことで、最近、スペインの放送局も同じ名前
です。多分、スペイン語だと思います。また、「クワトロ ラガッツイ」
というのは、4人の使節という意味です。今年には、福者として殉教した
天正使節や、日本人キリスト教信者が指定されることが、決定されました。
 「福者」ユルバヌス法王やマリア=テレサと同列の扱いとなります。
  江戸通
[2007年03月04日20時26分]
お名前: 江戸通
 そんしさん、RES有難うございます。
 現在でも、たぶん群馬県の佐貫あたりからも訪れる方が多いという事を、
自転車で群馬からきた人が言ってましたね。
 よく誤解されるようですが、簗田(やなだ)は、現在では、群馬県だと
思われますが、ちり(地理)敵には、足利市(栃木県)の南部にあった
あたりで、一般的に言う、足利または、足利荘というのは、鑁阿寺周辺の平地
部分と切り通しのような道を抜けた、簗田御厨の事をいい、足利と言った
時は、ちりてきには藤原家綱の所領であった訳、5倍の面積である地域をさし
ていいます。
 境界論争もあるようですが、中国政府から、南蛮櫨(はぜ)が送られ、
論争は打ち切られているようです。
 灯明の材料である、櫨の実は、日本の在来種を使っていたので、畑地以外
の林部分の多くが、寺へ送る為に、藤原領から源家領へ編入された為である
と考えられるからです。畑地としては、現在の足利学校から西へそう遠くない
ところで会ったと考えられ、いわゆる境界としては、今でゆう、あぶらあたり
だと断定できると思います。しかし、櫨は、防火林の役割はないので、やっかい
者と言うので、当時も困った人は、多かったとおもいます。
 一時、流行ったユーカリも松戸では、防火の為だいぶへりました。

江戸通
[2007年03月03日01時17分]
お名前: そんし
関宿城博物館は陸の孤島みたいな場所にありますよね。
実際の関宿城には無かったろうと思わせるような天守閣造りの博物館で、箱物ってこういうのを言うんだという見本みたいな公共建築でした。でも展示内容は利根川の水利がメインで一貫性があって好感が持てた記憶があります。歴史ファンなら一度はいってみると面白いですよって感じですが、二度は行かないでしょうね。あのあたりは墓地が多いですよね。そういう場所なのかな。

[2007年02月28日10時53分]
お名前: 江戸通
 千葉県立関宿城博物館に、行きました。
 江戸川(旧とねがわ、または、鬼怒川)水系の要所として
武田、足利、北条の心胆を寒から締めた簗田家という武将の
居城があった地であります。
 下流である、私共の土手には、太田道灌の「水七則」なる
石碑があり、大田道灌所縁のものなど展示されているかな?
と期待しておりましたが、足利義氏と簗田家当主の書簡など
が示されていました。
 平安時代には、「ふといかわ」などと称され、常に、水害
の原因となった川ですが、江戸時代を通じての開削作業、
西国大名の普請により「東遷」が実施され、いまの利根川に
主流を替え、実に、昭和初期までかかった工事の課程が、
解りやすく説明してありました。
 本題の「簗田家文書」ですが、平成14年ごろ、現在は、
甲府の方らしいのですが、簗田さんが、関宿近在を訪問され
簗田家に伝わる文書を提出され、写しを作成したそうで、
かなりの量です。
 承久の乱に、上京した足利義氏がこの地に深く係わって
いたのは確かで、官途は上総介を世襲に近い形で保持して
いたそうです。また、簗田近江守の奏上にも力を尽くした
書状も残っているそうです。
 ところで、太田道灌は、何処に行ったのか?
 当て、宛てのない探求は続きそうです。
 個人的感想としては、江戸東京博物館にも、道灌像が、
あったので、軽い、ジャブのつもりで出した人が多かった
のではとかんぐっています。
 江戸東京博物館は、武蔵の國の時代から、副都心的役割を担い
室町期には、総検校職を相伝する江戸氏が、蔵や屋敷を置いた
あたりで、鷹狩はしなかったかもしれませんが、太田道灌も
所縁の地であります。江戸時代、浜離宮では、鷹狩は、実施された
かもしれませんが、海が近すぎるのでね、もう少し、牧のあった
処のほうが、鷹狩最適地だとは、思いますが。
  江戸通
[2007年02月27日21時47分]
このテーマについての発言をどうぞ。(管理の都合上書き込み時のIP情報を内部保存しております)
氏名 削除コード
E-mail URL


半角カナは使用しないようにしてください。文字化けします。