テーマ:現代?】千葉県の政局!!

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お名前: 悲運の武将義助
 新田義貞の弟、脇屋義助のことでは、ありません(^_^;)
足利義助のことです。承久の乱に、宇治川の合戦で戦死した
足利義助です。一般的には、桃井家は、新田党で、新田一族
と考える人が多かったのですね。知りませんでした。
 この、足利義助の奮戦への恩賞としてその子、義胤に桃井荘
が給付されたのが、桃井家創立だとされます。足利家の惣領は、
この時、三郎義氏が継ぎ、長系である足利義純は、足利家を継がず
北条家と同じように、小四郎義時(北条家の四男)三男、四男が
嫡流家をついでいます。
>主な領地である桃井荘が新田荘と近かったことから、新田貞義
>と鎌倉攻めでは、奮戦し、新田貞義没落後は、足利直義と共に、
>各地を転戦しています。いわゆる役務方の武将ということになります。
 あれっ、新田義貞の間違いだなと「すいません」とすればいいので
しょうが、桃井幸若丸が、後世幸若舞の創始者として有名なんですね。
 桃井家が、新田流なのか、足利家に同じ名前のものがいたのか、
諸説あり、断定はできないというのがありました。
 また、新田尼が、所領に関しては、絶大な権威をしめし奮戦に所領を
もって報いたという記事もありました。はっきりしなくて、すいません。
(結局あやまっていますなーー(^_^;))

  江戸通

[2007年02月23日21時59分]
お名前: 安房の国主(江戸通)
>どうも、応永30年に上杉定頼が、小栗村の桃井宣義が、
>恩賞を不服として決起した際、管領上杉家が、同族のもの
>を派遣し是が、代々世襲していたものとされています。
 桃井家は、足利家の同族で親族衆ですが、他の同族と比べる
と異彩を放っています。
 主な領地である桃井荘が新田荘と近かったことから、新田貞義
と鎌倉攻めでは、奮戦し、新田貞義没落後は、足利直義と共に、
各地を転戦しています。いわゆる役務方の武将ということになります。
 通常、足利や新田と言ったときは、合戦では、惣領である足利尊氏
や新田貞義に其々、親族が荷担し合戦に及びます。安全策とも言うべき
兄弟で別の親方に荷担する場合でも、旗頭である惣領に従った形で
参戦します。そうしとかないと合戦後の、恩賞配分は、惣領に渡された
恩賞を惣領が分け与えるので、恩賞に預かりにくく成る訳です。
 桃井家は、終始一貫して、新田貞義ー足利直義とくるわけですから
恩賞はどうなっていたのか?興味深いですね。
 新田貞義は、越後周辺に天狗党呼ばれる支持基盤があり、決起に
あたってはだいぶ期待されていたようですが、大勢力のこの天狗党の
動きが遅く鎌倉を陥落させてしまったようです。
 現在では、足利家、新田家など等といっても、荘園経営や土倉など
動きとは関係がありようがありませんがね。
 承久の乱のとき、大量の領地が足利義氏に給付され鎌倉第二の豪族
となりましたが、三河周辺の上野荘、細川荘(岡崎周辺)碧海荘、
戸が崎荘、荒川荘、今川荘、吉良荘と言った地域は、伊勢参りの影響
で、馬の売買が非常に盛んだったという事が一つあり、他の勢力に
比べ、2〜3倍の馬匹を合戦には投入していることが、関係あるのかも
しれないと思っています。
 
江戸通

[2007年02月04日11時32分]
お名前: 字のはなし
 字が違うので別人だと思っていたんですよね!
>大河「風林火山」も見逃せなくなってきましたね。ドラマでは、
>軍師山本官助は、三河あたりの武士という設定らしい。いまのところ
>実在は確認されていまさんが。
 昭和49年に市河藤若という武田信玄の家臣にあてた文書の中から、
「山本管助」が使者として口上を伝えるからよろしくね。という
文書が発表されていたんですね。
 子孫の市川さんが保管していたものを公開していました。
 以前、会津若松に旅行したとき、山本某という家臣が、いるという
立て札があったのですが、山本=山本勘助だったとは。
昭和50年代なものですから、この公表を知っていたかどうか?
 山本家は、新島ジョウの妻、八重子の実家でした。幼くして戦死
した弟の官服を身にまとい、新政府軍に出撃し、鶴ヶ城退去にあたっては
壁に大書して去ったとあります。
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/jinbutsu/jin31.htm
 武田信玄は、山内上杉家と松山城を争い、現在の坂戸あたりにも
出陣しているようですが、千葉県までは来ていなかったのでした。
 後北条家は、北は足利あたりまで行くことはあっても、古河や松山
あたりまでの経営には、慎重だったようですね。
 俄然、山本勘助実在論は、強そうだなあと、コンビニで買った、
「30分でわかる武田信玄ぼ兵法、風林火山」にありました。

  江戸通

[2007年01月15日10時15分]
お名前: 支離滅裂なのか?
 備中高松の記事が年末話題になったのですが、
数年来のプロジェクトとして香川県の高松で石垣復元
プロジェクトが実施されています。
http://www.shikoku-np.co.jp/feature/takamatsu_castle/
 万葉仮名で、「たかまつ」つながりなのだそうです、豊臣秀吉
の時代、生駒親正が居城としたのが契機だということです。
 年初に向けて、香川高松をアピールしたいところ?
 となりの、土佐では、大河ではあまり話題にならなかったの
ですが、里見民部という山内家の家老格の家臣がいます。
 御三卿に清水家というのがありますが、どうも清水宗治という
毛利方の有名な武将も、血縁ではないが継承を期待されたと
あります。
 そのような、話は多いですね。
 信濃の有力国人、小笠原氏は、武田信玄に圧倒され、流浪を経て
徳川家の客将だった時期もあるようです。
 真田家も一時は、山内上杉家の被官として主従100騎が、一時
身をよせています。
 大河「風林火山」も見逃せなくなってきましたね。ドラマでは、
軍師山本官助は、三河あたりの武士という設定らしい。いまのところ
実在は確認されていまさんが。
[2007年01月08日11時00分]
お名前: 追補 
 鎌倉時代に、勧修寺家(藤原家の支流)が宮将軍に
付き添い下向し室町時代には、関東管領になった、
上杉家について。
 其々、館のあった地名により、犬懸、山内、扇谷、宅間の
4家(上杉家)が、当初は、関東管領職を交代に修めていましたが、
次第に、山内家と扇谷家が争う形になりました。
 http://www.kamakuratoday.com/cgi-bin/ardisp.cgi?num=002
 現在、鎌倉にゆかりの散策コースです。!っ
 征討将軍として、定頼を任命したのは、山内上杉家の清方だと
されています。
 上杉清方は、管領として結城合戦の総大将を将軍義教の命じられて
います。同族の上杉定頼の館は何処だかは、はっきりはしません。

 また、里見家は。鎌倉様の要請で、何処にも行くタイプなので、
当然、上杉謙信が、「こいっ」とかい言うと、こっそり、
参加してます。カズザの人なんか小田原に篭っていたので、
相手もしてくれなかった〜〜〜。
 なんです。室町時代のはないですけんど。
  江戸通
[2006年12月21日01時38分]
お名前: ヘイ
【上総】千葉の歴史【安房】
ttp://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1136529908/
より抜粋

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古代;「総の国」 総=麻 麻が良く育つ土地なため

京の都に近い順に上総国、下総国に分割(後に上総国から安房国が分割)

平氏系が土着、平常長が勢力を伸ばす

平将門・平忠常の乱

上総氏(上総)と千葉氏(下総・忠常流)に分裂、対立

上総広常粛清により千葉常胤が権力掌握

室町時代:千葉氏、家中分裂により徐々に衰退

里見氏・足利氏侵攻に対峙するため北条氏と手を組む

秀吉の北条討伐と同時に千葉氏滅亡

安房から里見氏が勢力伸ばす

江戸幕府によって里見氏改易

天領・旗本領・小大名に分割、最大は徳川譜代堀田氏の佐倉藩

佐倉惣五郎指導する伝説的百姓一揆

幕末:佐倉藩より堀田正睦、席塾藩より久世広周が老中として幕末を司る

明治維新

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これでよろしいのですか?


[2006年12月17日20時27分]
お名前: よみがえる百年前 (^^ゞ
 百年前そうです、維新の頃のことですよね。
 TVでも先日、「LAST SAMURAI」が放映されましたね。
 維新直前には、千葉県沖には、メキシコ船籍のアメリカ商船
など多数来ておりました。外房には、日墨友好(ゆうこ?)の
塔などもあります。
 雄藩に命じて、半島警備を命じており、戊辰戦役を通じても、
この動員体制は、建前の上では、続けられていました。
 成田の領主林崇文は、藩論を全く無視し、一人幕府を助ける
為に、決起し勝山にまず乗り込み説得を試みたのを手始めに、
他の幕府を助ける為に各地に転戦しています。
 案外、興味をそそる話ではありますね。
 千葉では、ふなばし、市川、市原周辺で、小競り合いなどが
行なわれることがありましたが、海岸線を防備担当する藩の
担当がわかると決して面白いものではありませんね。
 せいぜい、誰が警備を担当するか決めかねていたものでは?
とかんぐりたくなるものですね。
 映画「ラストサムライ」では、小銃、4斤砲、機関銃を備えた
4個連隊が、旧式の500人余りのサムライに、散々やられながら
かろうじて新式武器でかちましたが、維新の頃は、弓はあっても
小銃不足、弾薬不足、で是を、乗り切ったほうが勝ちって言う、
展開が多いようです。
http://www.jcii-cameramuseum.jp/
 外務省は、他にも問題を抱えているので「長州ファイブ」という
長州藩が送り込んだ、聴講生達の問題に謀殺されそうですね。
 上記、URLで以前「LAST SAMURAI」という企画展を実施して、
大きな反響を呼び、だいぶ資料も集まったようですが、
資料の重さでつぶれそうだとか)^o^(。
 もしかしたら、書店でも残っているかも知れませんね〜。
 まあーネタばらしはこのくらいにしておきます。

  江戸通
[2006年12月17日13時35分]
お名前: 安房の国の人々
 えー本題は、「千葉県の政局」ですが、
戦国時代の安房は、神余、安西、東条、丸と言った
国人領主と言われていますが、何れも「水軍衆」で
鎌倉時代から海賊というにふさわしい勢力でした。
 神余氏の家臣山下家は、出下を所領としたので、
出下氏と言っていたものを出下の郡名ごと山下と
改め神余家を奪ったようです。
 里見家としては、安房一国(9万石余)を掌握する頃
から、小田原の北条家との関係を結び、北条家の援助も
うけています。
 海から鎌倉を目指す政策を持ちつづけ、豊臣家の小田原
攻めでも、鎌倉攻略を担当し、海上侵攻にこだわり、小田原
に遅参し、安房一国の安堵という恩賞にとどまっています。
 案外、有名な家老正木家は、里見家の同族らしく、必ずしも
水軍には拘っていなかったようですね。
 安房の掌握が、あの水域での海賊、航路をも握っていたようです。
 これは、人形劇や「南総里見八犬伝」では、あまり触れていな
かった点です。
 源頼朝の例のように、三浦半島から、三浦家の力添えで、安房の国
入りしたというのは、数多くの軍記ものに採用されているようですが、
はっきりした侵入経路は、解っていません。

  江戸通

[2006年12月16日10時47分]
お名前: 安房の国
 里見家は、碓井峠あたりを本貫の地とする
源氏の名門で、鎌倉公方からも征討にあたっては
度々参陣を要請される軍勢を与党としていました。
 安房の国では、安西家に与力し神余家が家臣
山下に横領されるに及んで、まず神余領を押領し、
東条、丸、を従え最後に、安西家を家臣としたようです。
 幕府から守護=国司として任命されたのは、
どうも、応永30年に上杉定頼が、小栗村の桃井宣義が、
恩賞を不服として決起した際、管領上杉家が、同族のもの
を派遣し是が、代々世襲していたものとされています。
 管領の「御教書」として征討にあたって発給されている
ので、当時としては正式な法令です。
 ただ、これは、本人が下向した記録がないので「遙任」
の可能性はあります。
  江戸通
[2006年12月16日01時17分]
お名前: ヘイ
里見氏について語ろう
ttp://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/975767764/

里見氏に関する掲示板なので、戦国時代以前の話もあります。
例によって、玉石混交だけどね。
ここでは、藤堂高虎の名前は全く出てきません。

話は飛んで、「白い巨塔」で、里見という名前が出てくるんでしょうか?


ついでだから
伏姫
http://www.mars.dti.ne.jp/~opaku/hakken/03/zmch01_fusehime.html


[2006年12月11日22時44分]
お名前: いざとなったら玉をだせ!
 原作の「南総里見八犬伝」では、玉梓は「たまづさ」という
安房の領主(領袖)山下の妾が、里見公の罰を受け殺されて
怨霊と忠犬「八房」が同じ存在だそうですが、人形劇の
「八犬伝」では、微妙にちがいます。先ず、ハチが、♂犬か
メス犬かはっきりしない、怨霊がハチなのかようやくわかんない
という2点に違いがあります。
 八犬士は、どうにも困った時は、お守りの玉を出し、ピンチから
逃れますが、真言密教の秘法と儒学が密着した。
「仁、義、礼、智、忠、信、考、悌」という曼荼羅を使うわけですね。
この玉は、伏姫と八房の「気」が作ったものとされているようです。
 私は、ピンチには、ニムルドの東京タワーの玉を出してしのいで
います。
 ニールドー>ニムルドー>針
 ということで、水晶に針金状の東京タワーの結晶が封印された
玉をお守りにしています。
 ニールドとニムルドが、やはり「針」だったことに
衝撃をうけています。
 尚、同じ形の東京タワーはないとお店の人は言ってました。

  江戸通
[2006年12月09日01時39分]
お名前: 江戸通
 HP創世記頃から、数々の賞を受けられた「白龍亭」さんの記事です。
http://www.mars.dti.ne.jp/~opaku/hakken/01/guide00.html
 1978年ごろの坂本九が「たまあずさの〜〜」どんどんどん
なんて懐かしいですね。さもしい浪人「さもじろう」とかは、
そもじからなまったのか?なんて。
 舞台は、戦国初期、岡山県あたりの政所の武士団が、北条家に
従って関東の新興勢力としてのし上がっていた頃ですね。
 岡山勢が多いというのは、豊臣秀吉が噂では聞いていたとか。
 「どんどんどん」と亡霊かふなむしか。

  江戸通
[2006年12月03日09時35分]
お名前: 江戸通
 気が付いた人も多いかも知れませんが、
 WWWの次、フジサン、フジサン、サンケイと一応
 駄洒落にしてみました。
 m(__)m
  江戸通
[2006年12月02日13時54分]
お名前: 江戸通
 ばっくナンバーから〜
 http://www.fujisan.co.jp/Product/5765/b/58610/
 あれ、TV雑誌を間違えたかな、伊勢亀山城主から、備中
 にお入府した板倉家は、老中でしたね。ここは、生半端な
 知識じゃ置いてくれないから?なななん
 といまは、在庫がないそうですが。
 http://www.fujisan.co.jp/Product/5765/b/117915/
  つまり、四民平等の旗の下、警固番役を有志を募ったのか
 ふむふむ。
 http://www.sankei.co.jp/shakai/jiken/061202/jkn061202003.htm
  えっ、成田市長の汚職? 
  伊勢亀山は、東海道と伊勢街道にまたがる要衝として街道
 警護の役負担が、江戸期を通じて藩の負担として重く、時代劇
 や室町期の武者絵巻にも多くの題材を提供してきたものですね。

  江戸通
  
[2006年12月02日13時47分]
お名前: ヘイ
江戸通さんへ

藤堂高虎
http://www2.ttcn.ne.jp/~tot23/page024.html

大久保長安事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E9%95%B7%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6

探してみたら、この程度しかわからなかったです。^_^;

藤堂高虎は忍者を使っての情報戦にたけていたようで・・・。
ひょっとして、忍者から大名になったのでしょうかね。


[2006年11月26日21時32分]
お名前: 江戸通
 ヘイさん、レス有難うございます。
 里見家は、豊臣秀吉の小田原包囲作戦頃から、
一躍、全国的に有名な有力大名として知られる
ようになり、宿敵北条家打倒に大活躍し、また、
徳川家康の関東移封の頃から、徳川家とは緊密
な関係を結び。初代、二代と老中職ともいえる
働きをしていたのですが。どうも、三代、家光
とはそりが合わなかったらしく、大久保忠隣事件
の連座が、主因だったようで、藤堂家の報告など
という批判は昔からあったようです。
 あくまでも、伊賀上野と亀山(三重県)あたり
の藩主の見た目なのですが、無視できるのでしょうか?
 伊勢というと和歌山の徳川家の陣屋(開発所)が
ありかなり、江戸時代から政局の要にはなっています。
 ただ、移封後は、国主池田家とは、正反対の立場
を貫き、トラブルを多く抱えていたらしい。
 端は、年貢の徴収問題や争闘も続いたこともあるらしい
 この時期の、家老全員の病死、殉死というのは、
特筆に価するらしく、滝沢馬琴の筆をとるきっかけに
なったほどの忠臣ぶりだったようです。

  江戸通
[2006年11月26日19時23分]
お名前: ヘイ
重陽の節句
http://www.kitanet.ne.jp/~kiya/paper/pp13.htm

これは江戸時代初期における大名廃絶録の一端ですね。
藤野保著「新訂幕藩体制史の研究」によると

関ケ原の戦いにおける戦後処理(慶長5年)

廃絶大名 88人 4,161,084石
減封大名  5人 2,163,110石
合計   93人 6,324,194石

江戸時代になってから

親藩 15人
譜代 104人
外様 122人
合計 241人

地域別

兵庫 19
千葉 18
以下略

没収総石高 17,987,863石

参考データ
天保4年に書かれた勝海舟の「吹塵録」によれば、
全国の総石高は、30,435,206石2升7合6勺5第9撮とあるから
単純に計算すれば、59%にもなる。

廃絶の理由

世嗣断絶 92人
幕命違反 74人
失政 32人
以下、お家騒動、酷政、百姓一揆など。

里見家の場合は、幕命違反ということになるのだろうね。
ただし、たいていの場合に言えることだけど、難癖に近いわね。

大名廃絶によって、徳川300年の礎がつくられたといってもいいかも。
忘れてた、武家諸法度(含参勤交代)もその一端を担う。
さてさて、武士道とはつらいものよのう。


[2006年11月25日23時34分]
お名前: 江戸通
慶長19年9月9日、里見忠義は重陽の賀儀の為、江戸城に出仕
ところが徳川秀忠から、安房国没収常州鹿島郡内3万石の替地として
倉吉4000石を申し渡される。
 これは、藤堂和泉守高虎が使いを館山城に出した折、大久保忠隣に荷担
し、公儀を疎かにし、牢人を召抱え、城郭を修復した事に対する処置であった。
 譜代大名十数名に城受け取りと勤番を命じた。
 伯耆(ほうき)久米郡田中に住居を移し、重臣堀江頼忠、忠臣板倉昌察らが
従った、元和5年頃、里見忠義(29歳)の死を前後して、或いは、病死し、
殉死して家老八人が亡くなった。
 このため、国主池田光政が、幕府に経緯を報告したと記録にあるそうです。
 確かに、家康の後は、殉死は禁令ということではありました。
 高野山に高源院殿崋山放牛大居士という一廟が立てられている。又、倉吉には
六人塚という大きな家臣の墓があり、忠義の墓が案外小さい。
 現在の千葉県知事は、里見家の家老の末裔だそうです。
 ちなみに、館山は、三代家光所縁の稲葉家が幕末まで納めたそうです。
 倉吉で亡くなった、家老家が「八犬伝」の主役達のモデルだったそうなんです。

[2006年11月25日21時12分]
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