テーマ:月刊「松下村塾」

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お名前: 如何なんだろう。
>芸州口(広島との境で岩国と大竹、大野一帯
>での間の戦争)で幕府軍は旧式の火縄銃でしたが、長州側はイギリス製のゲベール
>銃やミネール銃などの新兵器であったとのことで、これが長州側の勝因であると記
>されていました。
 四境戦争と言う言い方を長州側はしているようです。
 大島口  ?
 芸州口  御堀耕助  軍監 山田顕義
 小倉口  高杉晋作  後に 山縣有朋
 石州口  大村益次郎
  其々、別の戦い方があったのでしょう。
 奇襲作戦を持って始まった、芸州口の戦いは、小型戦艦
「丙寅丸(へいいんまる)」を少人数で巧みに操り、幕府艦隊に
砲火を浴びせ遁走し、陸に上がっては、火力を二割の兵員に集中し
残存兵力で、或いは、退路を断ち、残りは撹乱に回ると言う戦術を
駆使し、幕府軍を大いに悩ませたとしています。また、戊辰、函館
戦争でも、この戦法は大いに幕府を打ち破ったそうです。
 火力の不足をどう補うか、新潟では、艦隊から火砲を頼り、函館で
も、艦砲射撃を弁天方面に集中し乗り切ったようです。
 奇兵隊の初代総督、高杉晋作は、開戦に先立って、意見を求められ
次は誰に任せばいいかの問いに、「先ず、大村益次郎」でなけれな、
「山田市之允(顕義)」と末期の労咳に侵された高杉晋作最後の建策
らしい。当時、2000を越えると見られる、諸隊のうち800の
精鋭が山田に任されることになったそうです。
>また奇兵隊など身分を問わ
>ない軍隊がありすでに集団による戦闘が準備されていましたが、
 薩摩藩が長州勢をみての感想、
「軍勢をこのような少数しか集められなかったのか。」
 このうち、御盾隊では、全員が黒ずくめのいでたちで、服装では、
身分の上下が伺い知ることはできなかったそうで、芸州口の主戦力
が、この御盾隊だったらしい。鳥羽伏見では、この内の、一部が、新
奇兵隊、御一新団の旗の下に参加したらしい。

  恐々謹言  江戸通
 

[2007年03月15日20時28分]
お名前: 江戸通
 本当のところは、どうなんでしょう?
 侍大将本庄小参事、大将尾張大納言、禁衛総督慶喜とすると
交戦意欲のない部隊を率いていたわりに、善戦したという事に
なり、将軍の急折で停戦となるのでししょうね。
 調べてみたら、小規模ですが慶喜の部隊も参戦してました。
試験的に、平徒歩には、ゲーベル銃を仕官には、ミニエール銃
を持たせ、正使に近藤勇、副使に武田勧柳斉(りゅうの字は、
どうだったかだいたい本名なんか使わなかったようです。)
 慶喜傘下の部隊は、善戦し新選組は勝ち軍(いくさ)だった
と思っているようですね。
 鎌倉時代の合戦のように、記事を読むのも面白いですね。
 以前やっていた、「慶喜展」では、ゲーベル銃、スナイドル銃、
ミニエール銃が飾ってありました。戦闘の前線に立つ立場ではない
のでしょうが、使っていた冑(ヨロイ)は、かなりの傷があり、まだ
鳥羽伏見では、かなり進化した部隊を用意していたようです。騎兵も
80騎ほどですが、ナポレオンばりの軽騎兵だったようです。
 好戦意欲と戦闘状態かと疑うばかり環境は劣悪だったようで、
健康状態か小倉口では、熊本藩は撤退したようで、将軍の病状は、
まるで二次のようです。
 残る、二つの交戦口は、大村益次郎の指揮下だったようですが、
劣悪な環境は同じで、戸板で幼主をまず運び出すのが、戦闘以前か
どうかでもめているらしいですね。まあー、あの周辺は、コンコン
さんの方が詳しいでしょうね。
 侍大将が、午前中に決定されるや午後には辞任をした事を慶喜は、
後に語っていますね。侍大将というと鎌倉時代ですよね。
 維新を長州が行なったのではなく、天が長州を回転させたというのが
長州藩の意見でしたが、、、さらに、慶喜は、交渉は、脱藩(?)した
木戸寛治朗(桂小五郎が改名したもの、字については不詳)と黒田了介
らが密約をしてとかなり全貌を把握していたようです。
 吉田松陰が、北九州決起案が下敷きとなっては、いるようですが、
高杉晋作の無謀な戦略も影響したとは、言えるとは思います。
 オテントーに載り扇子を翳していれば、勝てると本人は、豪語していた
ようで、まあ病状が深刻で体裁を保てる状態ではなかったのは、
確かだった。
 答えになっているでしょうかね。桂小五郎の改名も明治ではなく、この時
だったようですね。となると、軍事同盟は、薩長ですがかなり様相が違い
ますね。
 一方の当事者、大久保利通は、平成になる頃まで、お骨も鹿児島には、
埋葬されておらず、黒田ー山縣のラインに深く係わっていたことが、
わかりました。
  江戸通
[2007年02月25日16時45分]
お名前: カーター
皆様新年明けましておめでとうございます。

ネットで「防長回転史」を検索していたら江戸通さんの文章が出て来ました。

>戦後「防長回天史」が発見され、明治維新についての内容が
>まったく変ったことは、記憶にあたらしいですね。

 明治維新について戦前と戦後の認識の変化についてご説明頂ければありがたいで
す。江戸通さんは萩や山口にも行かれたそうですが、松蔭についてご興味をお持ち
のようですね。
 「エレクトロニクスの草創期」というテーマで藤岡市助などについて書いていま
すが、岩国の地元の研究家の佐山和郎氏が書いた「日本のエジソン、藤岡市助に学
ぶもの」と言う本を11月に帰省の折に購入したのですが、その中に四境戦争(第
二次長州征伐)と言う章があります。芸州口(広島との境で岩国と大竹、大野一帯
での間の戦争)で幕府軍は旧式の火縄銃でしたが、長州側はイギリス製のゲベール
銃やミネール銃などの新兵器であったとのことで、これが長州側の勝因であると記
されていました。
 これに触発されて「長州戦争」と言う本を読んだのですが、長州側の銃はミニエ
ー銃であり、幕府側は旧式のゲベール銃であったと言うのが正しいようです。著者
の野口氏の文章を引用すると次の通りです。
『とにかく性能が違うのである。「なにぶん賊は打ち候も山上より打ち卸し、此方
よりはゲベル筒にて届き申さず」(芸州表出陣中日記)という現実があるのだから
どうしようもない。長州兵は、四、五町(436〜545メートル)先から川を隔
てて射ってきたが、残らずミニエー銃なので、尖り弾がひゅうと音をたてて、耳も
とを掠めて飛んで行く。わが軍のゲベール銃は届かない。・・・・今や戦闘の主要
な形態になった銃撃戦は、「戦闘」の概念を一度に変えたばかりでなく、これまで
になかった「戦傷」の性質を変えたのである。刀や槍で傷ついた者はは一人もいな
い。・・・前線兵士には、どういう敵と戦っているのか理解できてきた。」
    「長州戦争」野口武彦著、中公文庫より
 長州側には薩長同盟で新式の武器が導入されており、また奇兵隊など身分を問わ
ない軍隊がありすでに集団による戦闘が準備されていましたが、幕府側は個人の武
勲を問う旧式の発想であったと言う違いもありました。また、驚いたことに長州側
では維新団と言う被差別部落出身者の部隊があったそうで、その活躍は黒ずくめの
服装で諸隊兵と差別されており、前面に出て奮闘する初日からの戦いぶりを見て、
周囲の見方が一変したとのことです。第二次大戦の欧州での日系人の戦いも同様で
した。『身分解放の願いも込められた維新団の働きは抜群で、黒づくめの恰好で敏
捷に馳せ回る姿は幕府軍にもくっきりと印象づけられた。』同上書

 馬関戦争で欧米列強と実際に戦闘を経験した長州は幕府よりも武器についての知
識も豊富であり、悪徳武器商人にだまされることもなく新式の武器を購入し着々と
戦争に準備していたのに対し、幕府軍は彦根や紀伊藩などの寄り合い所帯で戦略を
たてる大村益次郎などの軍師もおらずまとまりを欠いていたのが敗因でした。

銃の知識については下記が参考になります。

http://www.geocities.jp/irisio/bakumatu/arms.htm

[2007年01月04日13時58分]
お名前: だいぶ昔
 実は、萩も山口も行ったことはあるんです。
 木戸孝允は、藩医の倅で、隣は、大組士木戸家
と言っても、実は隣なのだそうです。 (昌影 −− 昌景) <(>_<)>
 なんでも、末期養子だということで、養子を
認めない人も多いんだそうだ。
 なにぶん若い頃のうろ覚えなのですが、、、
 最近、仕入れたのは、なんと遺産が和田家から
2千貫も送られたとか、藩医を勤める傍ら、開業医
としても評判がよく、現在でいうと内科、眼科和田
らしいですね。
 2000石の旗本は珍しくありませんが、遺産と
なると?藩医としての俸禄は、20石なのだそうで
 「隣もうちも」  なんで幕府は、攻め込めなかった
んだろう?
 最も、恵まれた御三卿と言われた徳川家でも、謝金、
借金、お手伝いと来年の金なんかなかったらしいですよ。
 江戸通
[2005年10月02日21時00分]
お名前: 木戸孝允(きどたかよし)
 ついに、回転パート1の完結です。
 第二次長州征伐では、2000貫の領主として、
防長二州の磐居し、幕府と対立した領主もやはり
桂小五郎こと木戸孝允でした。
 藩医、和田晶影の長男として生まれ、その血筋
のよさから、大組の養子となり桂家当主となった
ことからでした。
 蛤御門の変に破れて、河原に住まいし、帰れて
いたのでしょうか?
 -----
 人間万事塞翁が馬という言葉のように、そのとき
の知識が、鳥羽伏見の後詰をうまく勤め、万が一、
維新が破れたときは、天皇を託すという密約が、
為されたとか。
 -------
 現状では、この程度は不十分かもしれませんね。

 結語
  かの観音力を念ずれば、たちまち消散するであろう。

  江戸通
[2005年09月30日21時43分]
お名前: 前原一誠と前原誠司
 割とすんなり変換できました。
 漁船を率いて、自ら潔癖を示そうとそたのが、
前原一誠(干城「かんじょう」隊長)。
 前原誠司は、現在、民主党代表です。

 じつは、干城隊とショウホウ隊(字不詳!)位が、毛利本家
の藩兵で他は、総動員体制の名残り、思い出なんだそうです。
 南奇兵隊、とか御盾隊も総動員体制の産物です。
偶々、栄光の奇兵隊の名をもった、2隊が藩の息がかかった
ものとされたということです。
 
 謹言尚早  江戸通

[2005年09月18日20時43分]
お名前: マサキとジキルとハイド
 維新回転(回天X)の中心は、ハワイ領事だった。
 正木退蔵は、萩城下の土原渡りに生まれ、親と同じ
大組の佐伯家で大組士となった。
 松下村塾では、奇行で知られ塾生から場を和ませる
愉快な人物として知られていたらしい。
 イギリスに渡り、造船技術を学び岩倉使節団を迎える
という役回りを受け持ってしまった。
 一度、帰国後、再度留学生のリーダーとしてイギリス
に渡り、R.L.スティブンソンと知り合い、ここで、
吉田松陰の思い出を語ったのが、世界ではじめて、吉田
松陰の伝記がイギリスで出版された。
 スティブンソンは、「宝島」「ジキル博士とハイド氏」
などで有名だが、後、アメリカに渡り、晩年は、太平洋を
航海したことでも有名らしい。この時期、正木退蔵は、
「ハワイ領事」として着任しており、この、間面会等の記録
は残されていない。
 老中 間部詮勝(まなべ あきかつ)に批判的で、安政の
大獄は、間部の仕業というのは、イギリス人としては、当然
の意見であります。
  少々謹言
  江戸通
[2005年09月04日09時31分]
お名前: 卒族 伊東博文
 1862年12月12日、建設中の英国公使館を
高杉晋作、久坂玄瑞、井上門多らと「攘夷血盟」を
結び、品川御殿山で攘夷を決行した。
 翌年、3月、国のために尽力したとして「士雇」と
され、翌4月には、銃火器を購入の傍ら、留学資金を
捻出する為に奔走していた。200両を藩から出されて
いたが、英国商人から600両を請求されたためでも
あった。
 長州藩としては、革命?第二世代として期待していた
一人が伊東博文であったようです。
 運命は、逆に廻り、四ヶ国連合艦隊に戦線布告した
長州藩に、開戦絶対反対を説く為、帰国したが入れられず。
 明治維新では、一線の指揮官の一人として、維新直後には、
兵庫県知事をも拝命しています。
 一人の意見では、変えられなかった攘夷といううねりに、
翻弄され、一介の農民として生まれながら、卒族といして、
表舞台に登場し、留学経験を生かし出世したのです。
 簡単に、卒族というと?士族とはちがうのかといいうこと
ですが、手付という最上位層でもお役目程度のことで、農民
ですが、「士雇」は卒族という秩禄公債がないけでも武士と
いう身分ですね。
 長州藩の「テロの決算」ではありますね。
 維新は、回転していました。

 江戸通
[2005年07月31日20時46分]
お名前: 日本のナポレオン山田顕義
 初代法務大臣、山田顕義は、日本にフランス民法を
導入し、日本のナポレオンを目指した人です。
 第二次長州征伐(四境戦争)では、芸州口の守備を担当し、
後、函館戦争まで大村益次郎から。「用兵の才」を買われて
一環して参謀を担当していたようです。
 評価の難しい「芸州口(現防府市周辺)」の戦闘から、
鳥羽、伏見の戦いと参謀として参加した。
 残念ながら。生野銀山の視察中に49歳で過労のため
亡くなっています。
 長州藩大組(馬廻り衆)の出で、主に参勤交代での
折衝を担当していた。
 山口県光市の庄屋木村家の分家の出である伊東博文
とは、日本の司法を確立した双璧と言っても過言では
ないようです。
 農家としては、普通の伊東と馬廻り山田という組み
合わせは、日本の司法を考えるうえで重要です。
  
江戸通

[2005年07月30日14時02分]
お名前: 「維新」が回転する。
 既に、出ている物を含めて、第一部を紹介します。
  
  1 吉田松陰の生涯
  2 吉田松陰と久坂玄瑞
  3 吉田松陰と吉田稔麿(としまろ)
  4 吉田松陰と高杉晋作
  5 吉田松陰と入江九一、野村靖
  6 吉田松陰と中谷正亮、久保清太郎
  7 吉田松陰と山縣有朋、赤根武人
  8 吉田松陰と前原一誠
  9 吉田松陰と伊東博文
 10 吉田松陰と品川弥二郎、山田顕義
 11 吉田松陰と渡辺高(?)蔵と正木退蔵
 12 吉田松陰と木戸孝允(桂小五郎)
  またまた、維新回天のようですね。
 終戦直後の新書「明治維新」が、維新史をかえたようにね。
 羽仁氏も他界され、むべなるかな。
  現在、2のポイントがあります。
 1 吉田松陰は、ペリー「浦賀来航」にいただかえではなく、
   ペリーの日本紀行をも研究していた。
 2 米百表の小林虎三郎と吉田松陰は、佐久間象三から、「
   二トラ」と呼ばれ、洋学、日本に師とするには、この
   二人しか居ないと表されていた事。
  戦後「防長回天史」が発見され、明治維新についての内容が
 まったく変ったことは、記憶にあたらしいですね。
  タイトルからして、山口が変ったのか天が回ったのかなおでしょうが。
  まあ、前原一誠らの「干城隊」が維新を変えたくないとでも
 すればねつですが。
  くるくる回る必要はないようですね、維新は回転します。
 まわりますよ。
   
 江戸通
[2005年06月11日08時56分]
お名前: 仁政】前原一誠
 松下村塾の一員として、下関の越荷方として
西洋銃の買い付けに奔走していた、前原一誠は、
病床の高杉晋作に代って、小倉口の奇兵隊の
指揮に向った。当時、徳川家茂の病状が悪化した
こともあって、小倉では、熊本藩が撤退をほのめかし
小倉城正面での戦いが、行なわれようとしていた。
 老中小笠原の親族という立場でありながら、無策
だった小笠原家に対し、攻撃し年貢半減の要求を飲み
僅か数週間で、小倉城を奪取炎上させたのが、前原
一誠であった。
 後、新潟での新政府と長岡藩の戦闘が激化したときも
新潟府判知事として、新潟に年貢半減令を敷いたのも、
前原だった。
 吉田松陰の生前から、小林家とも親交があった為、
長岡の米百表を演出したのも「仁政」を掲げた、
前原一誠だったらしい。ただ、新政府内での対立から、
萩の乱を説得しようとして、逆に、主謀者となり、
「神風の乱」の敬神党のような会を明倫館につくり、
鎮圧され、江戸に送られ処刑されてしまいました。
  
 余談ですが、VOL8からは、近くの本屋でも
置くようになりました。

  江戸通
[2005年06月05日18時31分]
お名前: 塾頭「玉木文之進」
 塾頭は、吉田松陰だけではなかった。
初代、塾頭  玉木文之進 松本村新道で始める。
二代     久保五郎左衛門
三代     吉田松陰
四代     馬島甫仙
 とざっと、吉田松陰を中心とすると文之進は、叔父
 久保は、外叔、そして本人となるわけで、馬島(マジマ)は
 塾生だったようです。
  当時の教養であった儒学とゆよりも、実学に
特に力をいれていたようで、京都や大阪へは、勉学の要は、
なしとは、塾生の実感だったようです。
 明治9年、前原の乱に塾生が係わったことに責任を感じた
玉木文之進は、自決し。塾は閉鎖され、「四書」「十八史略」
を講じることはあった程度になり完全に閉ざされたそうです。
   江戸通
 
[2005年05月03日18時08分]
お名前: 「この仇は絶対とる」
 高杉晋作が何を言ったか、檄文なども残って
いるのでしょうが、何を置いても、
吉田松陰刑死の報を聞いて、この歴史に残る
「この仇は、絶対とる」というのが、一番、
有名ですね。
 「動けば雷電の如く
  発すれば風雨の如し」とは、伊東博文の
追悼文にある言葉ですね。
 本名  春風
 字   暢夫(ちょうふ)
    吉田松陰を改葬後、剃髪して 東行 と号す
     宍戸刑馬  馬関戦争
     谷梅之助  野村もとにの許に亡命
     備後三介  俗論派と戦争
     紅屋喜助  侠客日柳燕石(くにやなぎえんせき)宅に潜伏
     和助    松陰招魂祭を行なう
     谷潜蔵   蒸気船無断購入する
  と沢山の名前を使いわけていますね。あくまでも
 「晋作」は通称ですね。長州藩では、小姓組から海軍総督にまで
 出世していますから、破天荒な行動とは別に、家柄、宮勤めも、
 苦手では、ないようです。
  久坂玄随とは、ちがい「草莽崛起」といっても、
 吉田松陰の教えたとうりだったようです。
  
   江戸通

     
   

[2005年02月26日10時19分]
お名前: 誤算
 長州が実施した攘夷決行は、久坂玄瑞の
誤算が原因だった。
 また、久坂本人は、妥当性のあるもので
あったと思い、それからも、負の違算(遺産)
を背負い続けているような人生ですね。
 また、死に臨んでは、医家である事を示す、
僧体であったか?あたりにミステリーが、また、
一つありそうです。
 松陰の記事からは、大老井伊ではなく、間部
なのかいつも考えさせられます。

  江戸通
[2005年01月29日22時56分]
お名前: 絶交状
 吉田松陰は、この間部詮勝(まなべあきかつ)討て
という策が、塾生から洩れたてから、塾生に次々に、
絶交状を叩き付けています。
 久坂玄瑞は、突然、温泉に向かい、また、突然、
吉田松陰と面会しています。
 「君の議論は、空論で、元寇を引き合いに出すなど
現在の議論になっていない」と反論された玄瑞のこと
妻文(ふみ)がいる身を案じた松陰は、快く面会には、
応じたとあります。
 只、野山獄に投げ入れられ、江戸送りとなるまで、
母と義母に
 「かけまくも君の国だに 安ければ
   身を捨つるこそ賎(しず)がほいなり」 矩方
 と詩をのこしています。

 ですから、松陰は、弟子を許すと言うのを、
行動(至誠)ではなくてはダメと言う持論を展開した
のでしょう。
 間部詮勝を要撃せよと幕吏にまで解いたのでしょう。

     
   衆中八万四千衆生 皆発無等等
   阿褥多羅三貘三菩提心  (ノクは 耒へん)

    衆中八万4000人の衆生は、
     正しい悟りに向かう心を起したのであった。
                  (瀬戸内寂聴 訳)
  江戸通
[2005年01月28日21時32分]
お名前: 江戸通
 ヴィジュアル化のマガジンに、登場した異色の
存在ですね。
    VOL2「久坂玄瑞」 時代に檄  
 が圧巻です。
 「去るものは追わず。来るものは、拒まず。」という前フリ
ではじまりますが、
 時の人、老中「真部詮勝(まなべあきかつ)を要撃せよ」
という松陰の檄が、塾生から洩れたため、松陰は野山獄に繋がれ
、江戸送りとなり千住小塚原に斬首される訳ですが。
 この間に、女刑衆か意見され塾生を許す。という筆頭が、
この久坂玄随だったということです。
 「私は、公明正大を好む、こそこそとすることを
   好まない。」という松陰の言葉は、なんと
「留魂記」にもあるように、幕吏にまで、真部要撃を説き、
その生涯を終わったのでした。
 久坂玄瑞の余生は、誤算があったものの、時代を変えるという
行動に駆り立てたのでした。
 私は、当時女性が、学びえた一つのお経の文字が、松陰を動
かしたと考えています。
 妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五 瀬戸内寂聴 訳 から
  
  雲雷鼓掣電 降雹樹大雨
  念被観音力 応時得消散
   あるいは、雷がとどろき、雹(ひょう)大雨がのような難儀
   があったときも
    かの観音の力を念ずれば、たちまち消散すであろう。
                             合掌
  江戸通



[2005年01月26日22時36分]
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