お名前: 素里奈
新羅先年の宮殿は慶州の月城に造営されたが、次第にその周辺に拡張された。 七世紀後半に月城の東に接して臨海殿を中心とした一廓が造営され、その苑池として通称雁鴨池と呼ばれる池がつくられた。 池の南辺と西辺は直線的な護岸石積みとし、 その外郭に大小の建物を配置した。 池の北岸と東岸は多くの入江をふくむ複雑な曲線につくり、それに奇岩奇石を組みこんた。池の中には、大小三つの人工島を配置し、池の西側にならべた。 岸辺にも大小五棟の建物をつくり、互いに渡り廊下で取りむすんで、宮殿の中心部とした。 池の南側には小規模な建物と渡り廊下・垣墻をつくり、池の水の取り入れ口近くには水浴びの為の石槽を設け、 宮殿内での私的な空間としていた。
これらのことは、 一九七四年から三ヵ年にわたる発掘を通じて判明し、また、夥しい量の文化財が出土した。 池の底からは周囲の建物のものと思われる多くの瓦摶類や飾り金具など、 また宮殿で使用されたさまざまな土器類や青銅製器具および仏像など、
一万二千余点の遺物が発見された。
これらの遺物のうちには日本の正倉院に所蔵されている遺品と全く同じ形態のものが少なくなく、「地下の正倉院」と称えられることとなった。ちなみに、壬申の乱がおきた六七二年以後、天武朝はそれまでつづいていた遣唐使の派遣を中断し、新羅と密接な外交関係をむすぶ。たとえば六九五年までの間、新羅は使節を二十一回派遣し、 日本は遣新羅史
を八回送っており、 八世紀の遣新羅使は十五回にのぼっている。 これらの使節を歓迎する宴会が新築の臨海殿で催されたのはいうまでもない。
雁鴨池:出土の金銅挟(燭台用)は日・韓両国共通で有名。
(参考文献:『韓国・日本交流二千年史』悦話堂(在ソウル)一九八四年九月一日刊)より。
[2008年01月17日13時59分]
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