テーマ:雑感 記紀

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お名前: akira2
歴史万華鏡 編集委員 岡本健一 1994年8月12日 毎日新聞より
記紀の出典論、後生に託して応召 藝文類聚の発見<青春の遺書>
 昭和18(1943)年秋、構内のイチョウの葉が色づき始めたころだった。小島憲之さん(当時、京大国語国文学教室教務嘱託)は『日本書紀』の欽明(きんめい)天皇の巻を読んでいて、ハッと気がついた。
 「この言葉の出典は、中国古典からの引用というより、文芸百科事典『藝文類聚』(げいもんるいじゅう)からの、一種の孫引きではないか」
『日本書紀』や『古事記』編集の手の内が見えた瞬間、小島さんは小躍りした。研究者にとっては無尽蔵の鉱脈を発見したようなものだ。「これで一生、論文が書ける」とひそかに安心もした。
『藝文類聚』は唐の欧陽詢(おうようじゅん)が7世紀前半に編集した〈類書〉つまり分野別百科事典。森羅万象・人事百般を天地・四季から人間・政治・産業・生活・動植物まで45部に大別したうえ、千項目余りに分けて解明する。古典や詩歌をふんだんに引用してあるので、金言名句の文例・引用辞典としても役立つ。
 たとえば〈交友〉。友情にまつわる故事や名言がイモづる式に出てくる。したがって膨大な中国の古典をひっくり返さなくても、また万巻の書物をそらんじなくても、『藝文類聚』の関係項目を開き、しかるべき名句を拾いだしつづりあわせたら、典拠のある格調高い文章が書けるわけだ。
 ー『古事記』の太安万侶も『日本書紀』の編集スタッフも、どうやら『藝文類聚』をネタ本に文章を書いたらしい。
 これが小島さんの直感だった。
 しかし、戦局は急迫していた。翌19年に入ると、国語国文学教室も、「入営・応召相つぎ・・・・学内いよいよ寂寥(せきりょう)の感」を加えていた(機関誌「国語・国文」の消息欄)。
 4月、小島さんに召集令状が届く。14年、日中戦争で満州(中国東北部)へ出征して以来、2度目の応召だ。
 「去る6月、帰還後の満2箇年孜々(しし)として研究室嘱託として尽瘁(じんすい)せられた小島憲之君応召、既に某方面で軍務に属して居られる。・・・・」
 前年末にまとめた論文「記紀の翻案史をたどる」が「国語・国文」4月号に載る予定だった。小島さんは令状を受け取ると、ゲラ刷りの余白に「追記」としてこう書き加えた。
 「書紀の成文の素材は漢書(かんじょ)、後漢書、三国志其の他の史書の外は、類書特に欧陽詢の『藝文類聚』に負うてゐる処が多く、在来考へられてゐた程に、四書五経など種々の典籍は直接には参照してゐない。これに就いては編纂(へんさん)問題と共に別の機会をまたう」
 当時の心境をふりかえって小島さんは語る。「もし、自分が日本に生還できなくともだれか百年の後にはこれを読んで、研究を発展してくれる人が現れよう、という気持でした」。後生に託した<青春の遺書>だったのだ。
 はたせるかな、小島さんのの乗った輸送船「日蘭丸」は、フィリピンのバシー海峡で敵の潜水艦に攻撃され、沈没する。救命具をつけて全員が飛び込んだ。さいわい、急行した駆潜艇につぎつぎロープで助け上げられた。小島さんはしんがり。沈没からすでに7,8時間、波間に漂っていた。「早くロープに捕まれ」と一喝された小島さんは、我に返って九死に一生を得た。
 背のうにしのばせた文庫版の『日本書紀』は、山中の逃避行の間にあらかた落とし紙になって消えた。
 戦後、研究再開。当時、京大には『藝文類聚』が一組しかなかった。毎朝9時、1番に文学部図書室に駆けつけて本を借り出す。そのうちに小島さん専用に取り置いてくれるようになった。昭和27年、大阪市立大学に転ずるまで、記紀の出典調べはつづく。
 その成果が『上代日本文学と中国文学−出典論を中心とする比較文学的考察ー』全三巻、1908頁の巨冊だった。執筆に要した歳月は34年1月から丸6年。40年春、完成と同時に学士院恩賜賞を授かった。
 授賞式のさい、天皇陛下の前で15分間、あらましを説明した。発見の直後「(陛下の)お召しがあって」後生に託しました、と言い添えた。
 小島さんだけではない。戦後史学の最高傑作に数えられる丸山真男さんの『日本政治思想史研究』の場合。なかの一編「国民主義の<前期的>形成」も、応召の日の朝までかかって書き上げ、新宿駅で見送りの友人に手渡された。よく知られたエピソードながら、研究半ばで戦地におもむく、50年前の学徒の典型だった。
 戦後、友人らの手で遺稿集『中世荘園の構造』が編まれた清水三男のように、戦場に散った人の数はしれない。
(万事一滴様の文書を元に加筆等させていただき作成。) 毎日新聞より
[2021年11月08日07時05分]
お名前: akira2
記紀
 何故、古事記があるのか?日本書紀があれば古事記は要らない。
 古事記は712年に編纂されてる。日本書紀は720年に編纂である。同じころ作られたのに古事記は33代推古天皇まで。日本書紀は41代持統天皇までである。
何故、古事記は33代で終わったのかな。
 古事記が33代で終わった理由はどうすれば調べられるか?
同時代に出来た日本書紀の33代までの記事と34代以後の
記事の違いを調べればいい。

違いは、それは日食の記事だ。推古天皇の晩年日食が起きそれに合わせるように
崩御される。この記事をぬいて34代から41代までに10個の
日食の記事がある。しかし、推古天皇以前には日食の記事は1つもない。
古事記は、推古天皇の崩御まではかかれてない。
つまり古事記には1つも日食の記事がない。
 日食の記事があるのは記録だ。事実である。無いのは創作ということだ。
つまり33代までは架空の天皇だということである。
それを伝えるために古事記が作られたのでは。
推古天皇は600年ごろの天皇。女帝である。この頃の
中国の書物に隋書がある。隋書には、王の妻とある。
後宮には女性がいる。王は明らかに男である。
女帝ではない。推古天皇は作られた天皇である。
[2021年11月08日06時51分]
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