お名前: akira2
女王国
│NO 魏志 │魏略 │後漢書 │変更 │分類 │
│1 世々王あるも、皆女王国に統│其国王皆属女 │ │女王 │女王 │
│属す。 │王也 │ │ │ │
│2 南、邪馬一国に至る、女王の│ │ │ │女王 │
│都する所 │ │ │ │ │
│3 女王国より以北、その戸数・│ │ │ │女王国 │
│道里は得て略載すべき │ │ │ │ │
│4 次に奴国あり。これ女王の境│女王之南、又 │ │ │女王 │
│界の尽きる所なり │有狗奴国 │ │ │ │
│5 女王に属せず │不属女王也 │ │ │女王 │
│6 郡より女王国に至る万二千余│自帯方至女国 │ │ │女王国 │
│里 │万二千余里 │ │ │ │
│7 女王国より以北には、特に一│ │ │ │女王国 │
│大率を置き、諸国を検察せしむ │ │ │ │ │
│8 文書・賜遺の物を伝送して女│ │ │ │女王 │
│王に賜うしめ、差錯するを得ず │ │ │ │ │
│9 女王国の東、海を渡る千余里│ │女王国より東、海│ │女王国 │
│また国あり、皆倭種なり │ │を渡ること千余里│ │ │
│10 人の長三、四尺、女王を去│去女王国四千 │女王国より南四千│女王国│女王国 │
│る四千余里 │余里 │余里 │ │ │
│11 景初二年六月、倭の女王、│ │ │ │女王 │
│太夫難升米等 │ │ │ │ │
│12 その年十二月、詔書して倭│ │ │ │女王 │
│の女王に報じて │ │ │ │ │
│13 倭の女王卑弥呼、狗奴国の│ │ │ │女王 │
│男王卑弥弓呼 │ │ │ │ │
[2021年11月09日12時50分]
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お名前: akira2
21か国
魏志によれば帯方郡から狗邪韓国までが7000里。倭は周旋5000里。また、別記事で帯方郡から邪馬台国までが1万2千里とある。
つまり、邪馬台国は倭の端にあり、倭の最南端であることがわかる。
すなわち国名のみの21か国は邪馬台国の南にしてはいけないのである。
21か国は実は邪馬台国の北にあったとすべきである。これが邪馬台国論争の間違いの1つである。
なぜ、邪馬台国の南にしたかというと魏志に、「自女王国以北其戸数道里可得略載其余旁国遠絶不可得詳」とある。国名のみの21か国は遠絶なので邪馬台国のさらに先、南にしたのである。これは陳寿が元の資料を誤読して21か国が邪馬台国の南にあると思い、この文を挿入したのではないか?
これが邪馬台国論争をうんだ間違いの1つである。
邪馬台国でユーターンして21か国を邪馬台国の北にすると魏志がよく理解出来る。邪馬台国から北、北、西と戻れば奴国に着く。21か国の最後の奴国は福岡の奴国の事である。奴国まで戻ったのである。
狗奴国
「次有奴国此女王境界所尽其南有狗奴国」狗奴国は、奴国の南にあると書かれている。
一般に邪馬台国の南に狗奴国があると思われている。これが誤りの2つ目である。魏志には奴国の南とある。
奴国は福岡であるので、その南の熊本県が狗奴国である。熊本説は従来から言われている。
北部九州と東九州の逆L字形で女王連合があり、これに囲まれるように西九州に狗奴国があったのだろう。
[2021年11月07日20時48分]
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お名前: akira2
女王国
女王国の東は海に面して千余里で倭種がいる。女王国は邪馬台国を意味してる。北部九州説で福岡、吉野ヶ里、山門など内陸部は誤りと言える。
奈良などももちろん誤りである。
[2021年11月07日20時33分]
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お名前: akira2
古墳
邪馬台国の1番目の官に伊支馬がある。
岩波文庫の解説に伊古麻、生駒、活目か、とある。
宮崎市内にある生目古墳群の生目か?
[2021年11月07日14時58分]
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お名前: akira2
陸行一月
奴国は、福岡でいいと思う。ここから東へ行って海岸に出るとこが不彌国。
不彌国から南に海岸を行くと投馬国。
投馬国から南に水行十日陸行一月で邪馬台国。ここで陸行の起点国名がない。また、方位が記述されてない。ここは、投馬国から南に水行すれば10日、南に陸行すれば一月と考えていいと思う。これから南に水行出来南に陸行出来るのは海岸線が南北になっていることが解る。九州の東海岸で南北になっているのを現代の地図で探すと延岡から宮崎市までの日南海岸。延岡から宮崎市までを地図から計ると75kmと解る。
水行10日と陸行一月はそれぞれ75kmと解る。陸行10日は25km。
今日1時間で4km歩ける。1日8時間歩くと1日32km。卑弥呼の時代は道が悪いと思うので1日30kmは無理では。陸行25kmは10日でなく1日の方が妥当である。
榎博士は、唐の時代1日に50里歩くとされてた。魏の時代1里は430mくらい。
1里500mとして50里では25km。25kmは陸行10日でなく陸行1日である。
随書に「国境東西5月行南北3月行」とある。九州から近畿まで統一されてたとすると、。福岡から奈良まで直線距離で約500km。九州の南北約300km。
つまり一月行は100km。
魏志では陸行一月は75km。随書では一月行は100km。卑弥呼は250年ごろ。随書は600年ごろ。250年ごろの道は悪いと思うので75kmは妥当と考える。陸行10日は25km。25kmは陸行1日が辻褄あう。
[2021年11月07日14時51分]
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お名前: akira2
行程記事に関して
不彌国から先は使者は行ってないので日数表示とか?邪馬台国の卑弥呼に会いに来たのだから会わずに帰へる訳がない。
『倭人伝』の行程記事を表−1を示す。
表−1 行程
(1) 始 度一海 千余里 至 対海国
(2) 又南渡一海 千余里 至 一大国
(3) 又渡一海 千余里 至 末盧国
(4) 東南 陸行 五百里 到 伊都国
(5) 東南 至 奴国 百里
(6) 東行 至 不彌国 百里
(7) 南 至 投馬国 水行 二十日
(8) 南 至 邪馬台国 水行十日陸行一月
2番目が 又南 とあるので、1は南と解る。3に又とあるので3も又南が又で南と解る。同じ事でも3つ全部文を変えている。繰り返しを嫌うのが陳寿のクセだ。いわゆる、これが美文というものである。
海を行くので水行である。次の三つは陸行である。最初は陸行とあるが、次は何もなく6番目には行のみである。東行である。これも三つ全部異なる表現を取っている。
この次は、里数表記から日数表記に変えている。ここでも、くり返し表記を嫌っている。
7は、水行の日数表示。次は、予測できる。陸行の日数表示と考えられる。
しかし、違う。八個全部異なる記述である。
全部で八個ですが、半分は四つで、4までは、
方位 距離 至 国名
5からは、
方位 至 国名 距離
4番目が伊都国であるが、一つの書物の中で、ここだけ特殊な解釈があるとするには無理がある。 ここのわずかな量の文で、解釈を変えるように書いたらほぼ全員が誤読すると思う。そのような文章は下手な文章である。正史にそのような誤読させる書き方は用いない。
ただ、陳寿がくり返し記述を嫌い前と後で変えたとみていいと思う。二重にしたのである。
放射式解釈は誤りと考えていいと思う。
[2021年11月07日14時41分]
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