お名前: 広嗣
今回は「持衰」について書いてみます。
持衰は航海の安全を図る呪術的人物であったようです。航海が無事に済めば褒美が貰えますが、疫病が起きたり暴害に遭えば殺されかねない人であったようです。
これに関連して以前弟橘媛(おとたちばなひめ)が持衰に相当する人であったのではないかと書いたことがあります。唯一あった反応はこの考えを一蹴するものでしたが、弟橘媛は走水を出て途中で風害に遭い船が進めなくなったところで「自ら」命を絶ちます。
「魏志倭人伝」は「殺さんと欲す」と書いていますので、実際は同乗者が殺したわけではないということなのでしょうか。想像ではありますが、疫病や暴害が発生した状況で自ら命を絶つ選択肢か残されていなかったのでしょうか。
「魏志倭人伝」は持衰の性別を伝えていませんが、「記紀」は弟橘媛は「日本武尊の妻」と伝えていますので、そのまま解釈すれば女性であったことになります。卑弥呼にしてもそうですが、古代日本では呪術面は女性が担っていた可能性が強いです。
広くシャーマンは男性なのですが、女性が呪術を担う例は日本くらいしかありません。
「魏志倭人伝」は持衰は「婦人を近付けない」と書いていますので、男性だと思い勝ちですが、魏がシャーマンを念頭に置いて男性を前提に聞いたのでしょうか、このような記述になっています。しかし卑弥呼に男弟がいて実務を担ったように古代日本では呪術の女性と実務の男性が対になっています。
上記の唯一の反応では船長云々という指摘がありましたが、ここでも航海の実務を担う男性船長と呪術の女性という組み合わせがあったのではないでしょうか。日本武尊と弟橘媛は夫婦という形で対になる存在だったのでしょう。
[2024年05月06日04時33分]
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お名前: 広嗣
今回は倭人伝の枠を外れますが、邪馬台国は東遷したかという点について触れたいと思います。
私は東遷しなかったと考えています。東遷したとすると不思議なことがあります。「記紀」は神武天皇が日向を発して東遷・東征し「畿内大和」の地に王朝を築いたと伝えています。それが今の暦で言うと紀元前660年に当たるとされていますが、それから千数百年経って何故か「畿内大和」の王朝は日向の地を征服しています。「畿内大和」の王朝の故地であり当然領土であるはずなのに何故征服する必要があったのでしょうか。答えは簡単です。日向を発した人物と7〜8世紀の「畿内大和」の王朝は関係がないということです。
いつの時期か分かりませんが、日向の地を発して東方に向かった人物の伝承は実際にあったのでしょう。しかしこの人物の開いた王朝は長続きしなかったのでしょう。「記紀」は伝えていないですが、何者かに滅ぼされたことは間違いありません。
細かい点は長くなるので省きますが、邪馬台国とその後継王朝は北九州に留まり、版図を広げることはありませんでした。これが長らく中国が「倭」と認識していた地域です。余談ですが、邪馬台国の時代の倭は朝鮮半島南端部も含んでいました。誤解のないように言いますが、朝鮮半島南端部へ我が攻め込んで領土にしたものではありません。元々倭の領域でした。後に新羅や百済が版図を広げる中でコリア式に言えば加羅または伽耶、日本式に言えば任那と呼ばれることになりました。
更に決定打があります。「旧唐書日本伝」は「使者は多くは自ら矜大で本当のことを話さない」と書き、その内容に疑いを示しています。この頃までに邪馬台国の後継王朝は滅ぼされ「畿内大和」の王朝が朝貢するようになったのでしょう。そして「宋史日本伝」で日本は今我々が知っている神武天皇以降の皇統を述べています。その中で一切卑弥呼などのこれまでの中国の史書で出てきた名前が出てきません。卑弥呼を天照大神に比定する人がいますが、「天照大神即ち卑弥呼と」とは一言も触れいません。また「倭の五王」の一人倭王武は雄略天皇に比定することが広く行われていますが、「雄略天皇即ち倭王武」とも書いていません。
これも理由は簡単で、卑弥呼や倭王武に相当する人物は「畿内大和」の王朝にはいなかったのです。つまり邪馬台国の後継王朝は「畿内大和」の王朝ではないということです。
「畿内大和」の王朝が日本列島で唯一の王朝であることが「常識であった」時代ならともかくもう過去の遺物とする時代なのではないでしょうか。
[2024年01月10日06時49分]
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お名前: 広嗣
まず前回の訂正です。
前回「前漢の時代は百余国が遣使に訪れ」と書きましたが、「魏志倭人伝」を改めて良く読むと、「嘗て百余国があり遣使に訪れたのはその一部である」という判断に至りました。魏晋時代の30か国よりは多いのでしょうが、遣使に訪れた国は百もなかったということです。
「魏志倭人伝」は国の名前を幾つか挙げていて、伊都国を除くと30になるので、この30か国が魏晋に朝貢した国々なのでしょう。勿論この中に邪馬台国が入っています。伊都国を除外した理由は、「世々王がいるが、皆女王国に服属している。郡使の往来が常に留まる所である」という記述によるものです。つまり伊都国は「国」が付いているものの邪馬台国に服属していたということです。
この他に邪馬台国と犬猿の仲と伝える狗奴国を加えて、31か国が「魏志倭人伝」には載っています。この狗奴国は魏晋には朝貢していなかったのでしょう。
別のスレッドで古代中国が認識していた倭の領域と現在我々が古代日本として認識する倭の領域は同じではないという趣旨のことを書いたことがあります。謂わば古代中国で認識していた倭の領域は、現在我々が認識する領域より遙かに狭い範囲の日本列島に朝鮮半島南端を加えた地域です。では日本列島のどの地域が古代中国の文献で言う倭の領域なのでしょうか。「魏志倭人伝」に「女王国の東、海を渡ること千余里、また国があり、皆倭種である」という記述があります。問題はこの「東の海」で、どの海を指しているのでしょうか。津軽海峡と即答する人が多いかなと思いますが、津軽海峡は北にあり、東ではありません。古代史学者お得意の「北を東と間違えた」と主張する人もいるでしょうが、そうすると「魏志倭人伝」は「間違いのオンパレード」で、本来なら史料として信用できない物の筈です。単細胞の(?)広嗣はこういった手法は採りませんので、正に東にある海を探します。そうすると関門海峡しかありません。つまり古代中国の文献で言う倭の領域は、現在で言う北九州と大韓民国南部を合わせた地域ということになります。
最終的に古代中国の文献で言う倭は、現代の畿内大和の勢力が版図を拡大して併呑されてしまいます。「旧唐書倭国・日本伝」は「(日本国の使節は)多くは自ら矜大で本当のことを述べないので、疑っている」と記述しています。実際次の「新唐書東夷伝日本」には神武天皇から始まる皇統の記述がありますが、用明天皇のところで「隋書俀国伝」にも出てくる阿毎多利思比孤の名前を載せている他は、歴代の中国の文献で出てくる名前は、一切出ていません。例えば「○○天皇即ち倭王武」という記述があってもおかしくないはずですが、そういうものは一切ありません。
紀元3世紀の段階では特定の勢力によって日本列島は統一されていなかったのです。大別すれば、北九州、中国地方、畿内大和、関東地方ということになるでしょう。この他の地域にも王朝があった可能性は否定しませんが、主だった所はこうした地域なのでしょう。
[2023年04月16日04時46分]
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お名前: 広嗣
「魏志倭人伝」は「倭人は」で書き始めています。この書き出しは東夷伝の中では非常に珍しいものです。他は国名で書き始めているのに倭人伝だけは違います。
理由は前漢の時代は百余国が遣使に訪れ「魏志倭人伝」では30か国が遣使に訪れていると記している点にあります。当時の倭は、倭という一つの国にまとまっていたわけではなく、複数の国に分かれ当時の中国のお墨付きを得ようと互いに競っていたのです。
「邪馬台国連合」という学説があります。邪馬台国を中心に当時の倭がまとまっていて中国と交渉していたする説のようですが、そんなことはありません。邪馬台国も後漢や魏からのお墨付き得ようとして競っていた国の一つでしかありません。238年(景初2年)の遣使を境に倭人を代表する国と魏から認定されたに過ぎません。
後漢時代の初めに「漢委奴国王」の金印を授かった委奴国が倭人を代表する国と認定されたわけですが、邪馬台国との関係は分かりません。「委奴国」を「いとこく」と読めば、魏志倭人伝に伊都国が出てきますので、これとの関係も考えられます。魏志倭人伝の時代に邪馬台国は邪馬一国と名乗っていたという説を否定していますので、今は使えませんが、嘗て「邪馬一国」は「山伊都国」と冗談半分で考えた時代もありました。
伊都国の伊は手元の漢和辞典によると尹と同様の意味があるとしていて、司る意味があります。伊と都の間にレ点を入れて「都を伊(つかさど)る国」ということになります。実際「魏志倭人伝」の「郡使の常に留まる所」という記述を考えると、実態を表した命名と言えます。
魏志倭人伝が倭の領域として扱う地域がいつ頃一つに纏まったのかは分かりません。魏晋のお墨付きを得た邪馬台国が勢力を拡大し一つにまとまったと想像しています。
[2021年07月11日06時24分]
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お名前: 広嗣
今回は邪馬台国と邪馬一国の関係について書きます。
邪馬台国が正しく邪馬一国は陳寿が誤記したものとする説や古田武彦のように当時は邪馬一国と名乗っていたとする説があります。
広嗣は邪馬台国と邪馬一国のどちらも正しいと見ています。中国には例えば貴人の名前に関する「名諱の制」というものがあり、邪馬一国はこの制度を利用したものです。「名諱の制」には次の3つの形があります。
甲 名称の一部を別の文字に置き換える。
乙 欠画と呼ばれるもので漢字の一角を敢えて書かない。
丙 一字を空字として敢えて書かない。
邪馬一国は甲の例でしょう。古田武彦の言うように魏晋時代は「台」は皇帝を指す文字であったために「台」の字を避けて「一」を用いたものでしょう。
邪馬台国は一貫して邪馬台国と名乗っていました。しかし魏晋時代は台の字は庶民が避けなければならない文字であったために陳寿は邪馬一国と記載したのです。
時代が下ってこの禁忌がなくなると、『後漢書』では自称の通り「邪馬台国」と記載されることになります。
[2021年04月29日06時28分]
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お名前: 広嗣
今回は数年前に別のスレッドで書いたことと重複しますが、倭人の名前についてです。
邪馬台国では少なくとも対外的には中国風に名乗ったと見ています。魏志倭人伝は邪馬台国の人物の名前を6人載せています。理由を聞かれても、「思いつき」としか(!)答えようがないのですが、後の「隋書俀国伝」に出てくる人名が例えば倭王の名前が「阿毎多利思比孤」となっているのと大違いなのが気になります。
他にも魏志倭人伝から外れますが、「宋書倭国伝」に載る所謂倭の五王の名前も同様です。日本の天皇に比定されていて、通説では該当するとされる天皇の諱の一部を中国側が勝手に使ったとされていますが、本当にそうでしょうか。
まず諱は死後に付く名前ですから、生前に名乗っていたとしたら異常です。それに中国では漢族は伝統的に異民族の自称は尊重しますので、勝手に一部を取り上げて名前とすることは考えられません。宋の時代だけは特別にそうしたことが広く行われていたというのなら、話は別ですが。
国名の例なので、例として相応しいのか迷うところですが、現代でも「美国」(アメリカ合衆国)や「法国」(フランス)のように一部を国名表記に使う例もありますが、殆どは違います。つまり天皇に比定する通説は、破綻しているのです。
それでも倭に対しては天皇の諱の一部を使ったと主張するならば、その人にはその理由を明示する責務があります。
[2021年04月27日04時38分]
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お名前: 広嗣
「魏志倭人伝」について思い付いたことを徒然に書いていこうというものです。
今回は「男弟」の意味について書いていきます。
魏志倭人伝は「(卑弥呼に)男弟有り、佐けて国を治む」と言います。これだけ見ると、卑弥呼に弟がいて国政を補佐していたように見えます。しかしわざわざ「男」が付いていることに違和感を覚えます。「女の弟」は(!)いないので、「男」は必要ないはずです。尤も「女の兄弟」という言い方を耳にすることも珍しくないですが、それでも「女の弟」は聞いたことがありません。
試しに手元の漢和辞典で調べてみると、弟には我々が日常的に使う「弟」の他に「従う」意味もあります。魏志倭人伝で言う「男弟」は、「男の従者」ということなのでしょうか。
白鳥庫吉は卑弥呼は巫(みこ)で、男弟は覡(かんなぎ)であるとし、両者の関係は、天照大神と天児屋根命や建御雷神、神功皇后と武内宿禰、推古天皇と聖徳太子、斉明天皇と中大兄皇子などの関係に同じであろうとしています。白鳥の言う通りだと思います。
卑弥呼は最高権力者でしたが、実務はこの男弟が担っていたのでしょう。魏志倭人伝は何人か名前を載せています。しかしこの人が男弟だと断定する記載はないので、全く別の人が男弟であったのでしょう。魏が邪馬台国に使節を送った際には会っていると思います。
余談ですが、男弟は単数なのでしょうか。複数なのでしょうか。中国語も基本的に単数と複数の区別はしませんので、分かりません。男弟に触れた後で、魏志倭人伝では卑弥呼の身の回りの世話をする男子が一人いたと伝えています。ここでは一人と明記していますが、男弟については何の記載もありません。余計分からなくなります。
男弟はその後どうなったのでしょう。卑弥呼が死ぬと、男王が即位しますが、戦乱に見舞われます。この男王との関係はどうなのでしょう。
[2021年04月25日04時03分]
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