お名前: カーター
ヨーロッパの日本観の変化
江戸時代の17世紀末にドイツ人医師ケンペルはオランダ船に乗
って日本にたどり着き、二年間にわたって日本に滞在しその滞在記
「廻国奇観」を記し、江戸を二回訪問した内容などを記した「日本
誌」を残している。
当時の日本は戦国時代が終わり、徳川幕府の統治下で国民は平和
に暮らしており、焼き物、漆器などの技術が進んでおり、また食事
文化も優れており、当時の日本はヨーロッパよりも進んだ国である
と、日本訪問者によりヨーロッパに紹介されていた。
ケンペルは二度目の江戸参府をした時に使節団は123枚の着物
を贈呈されその一部をオランダ人が持ち帰り、インドで類似品を生
産させオランダ及びヨーロッパで販売したところ好評を博し、一般
にも広まるようになった。大学の教授や学生までも着物を着るよう
になると、町から教会に着物を着て来ないで欲しいと言う命令を出
すようになり、18世紀の終わりには家出くつろぐガウンに変化し
て使用されるようになったそうだ。
ドイツでは三十年戦争で混乱が起き、北欧の強国スウェーデンや
絶対王政のフランスの脅威にさらされており、徳川幕府の厳しい政
策で平和が保たれている日本はケンペルなどにとってはうらやまし
い存在だったと思われる。ケンペルはその著書で「鎖国論」と言う
章を組んで、「徳川幕府が国を閉ざすことによって、日本の民族が
平和的にまたは経済的に豊かに、しかも精神的に自由な生活を営む
ことができた。」としている。
当時の日本は、器用で優れた知能を持っているとして、ヨーロッ
パ人と同等の民族であるとか、あるいはヨーロッパ人よりも優れて
いると紹介されたが、その理由として日本人はうそが嫌いだ、日本
には盗人が少ない、お釣りが多過ぎると返しに来るなどの美徳があ
げられている。
しかし、フランスではモンテスキューは「法の精神」で日本を初
め中国も、専制政治主義であるとし、プロシアのフリードリヒ大王
も世界の政治的な中心はヨーロッパであると主張した。当時ヨーロ
ッパでは啓蒙思想が普及したのに対し、日本は鎖国をしたために啓
蒙思想を取り入れることができなかったために、一時進んでいた日
本の技術はヨーロッパに追い越されと言われるようになる。
日本ではケンペルの著書をオランダ人から入手し、志筑忠雄が日
本語に訳し写本で日本に広めた。その鎖国論を感激を持って読むも
のがいたが、幕末には横井小楠のように、ケンペルの鎖国論の評価
を非難し、日本の経済的な没落は鎖国政策によるものだとする者も
出てきた。(横井小楠は下記参照)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%B0%8F%E6%A5%A0
参考文献:「ケンペルの見た日本」ヨーゼフク・ライナー、NHKブックス
[2012年01月01日17時36分]
|