記事タイトル:日本古代史】神功皇后再考     広嗣

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お名前: 望月古亶
  あけましておめでとうございます。

 『白河本旧事紀(旧事紀白河家三十巻本)』の皇太子本紀に次のような記載があります。
 《二十有八年庚辰、皇太子四十九歳、春正月、太子、国史を編修することを奏し、乃ち蘇我ノ馬子の大臣、秦ノ河勝の大連、中臣ノ御食子(ミケゴ)大夫等と相ひ議して、天皇紀、及び国紀、臣、連、伴造、国造百八十部、并に公民本紀を編修したまふ》(原文はルビ付きの漢文)
 ところで、『日本書紀』に書き写す際、次のように改訂されたと考えられます。
《是歳、皇太子・嶋大臣、共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部并て公民等の本記を録す》
 『日本書紀』がこの文言を削除できなかった理由を考える時期に来ていると思います。
 なお、インターネットで『日本古代史最前線』をご覧いただければ幸いです。

   平成二十二年元旦


[2010年01月03日07時30分]
お名前: サガミハラハラ
神功皇后は340年の秋年に近江国の坂田の息長家に生まれた。容貌もすぐれて美しく、父もいぶかしがられる程であったという。352年の仲哀天皇の元年に天皇の后となった。
翌年(又は翌々年)誉夜別命をもうけるが夭折、そのショックもあり、敦賀の気比神社の奥宮に移る。
天皇は後を追いかけてきて、媛を皇后にし、都を気比にうつすことを約束。(気比の御
誓祭)
355年仲哀天皇は筑紫に陣を構え皇后をよんだ。
しかし、その年の春年に急死してしまった。そこで皇后は軍を率いて新羅をせめ、従属させることに成功、帰還してから応神天皇を生んだ。(福岡市宇美町)355年秋年のことである。
翌356年瀬戸内海を渡り畿内を攻め、逢坂の戦いで忍熊王を倒し、その年の秋年に橿原で応神が即位(皇后は摂政)した。
390年夏4月稚桜の宮で崩御、100歳(50歳)であったという。

[2009年04月24日22時30分]
お名前: サガミハラハラ
このスレの始まりの時代まだ2倍年暦がそれほど普及していなかったようですね。
神功皇后紀は2倍年暦です。よって30歳は15歳となります。
神功が応神を出産したのは15歳ですが、その前に男の子を出産しています。ただし乳児のうちに死亡しております。
[2009年04月23日20時57分]
お名前: 中尾
★卑弥呼は倭国大乱をを終結させる働きはしたが、他国を制圧したりはしていない。神功皇后が卑弥呼とはとんでもない話だ。
 それどころか、神功皇后は邪馬台国を滅ぼした張本人だ。恐らく、魏が滅亡した後に、卑弥呼の数代後の田油津姫を、鬼道を操り人民を惑わす、と言う理由で討ったのがそれだ。
[2004年10月26日12時41分]
お名前: 鈴木房江
4世紀後半からの東征問題について、おねがいします。北武蔵への影響はなかったのでしょうか。半島との絡みも問題として、捉えたいのですが。
[2004年06月16日10時07分]
お名前: 江戸通
神功皇后は、息長(おきなが)氏の娘で継体朝の関係者であるとされて
います。神話(日本書紀)では、住吉大社と伊勢神宮の信託を受けて熊襲 
征伐からそのまま新羅を征圧したことになっています。 書紀の作者は、 
卑弥呼と神功皇后を同一視しているわけですが、大阪の府立      
弥生文化博物館には、卑弥呼の館が再現されている事で有名です。    
池上曽根遺蹟の一角にあることから、この再現は、池上曽根遺蹟の発掘の   
結果とも、近隣の黄金塚古墳の出土物に基づくとも言われています。  
 この新羅征伐の記述ですが、実際に新羅との紛争があった事を暗示させる   
とか、継体朝下の息長家が祖先の伝承を盛り込んだとも主張されています。
神功皇后こと息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)は新羅王族で 
あった天日矛命(あめのひほこのみこと)とするのが、八幡社では、一般 
的であるらしい。                    
 更に、越前一乗谷の調査が進み、硝石の輸入に関連して中国経由のものは、
一乗谷を通過してらしい事が解った。しかし、同時に積み出し港と一乗谷は    
大して関係も無かったことが解ってきてしまったのです。越前朝倉家は、若狭 
守護武田家や越前守護斯波家でも守護代を執行していたような節もあるのです 
が、応仁の乱で、守護職条件に寝返ってからは、名門のあり方と異質な、盗賊   
政権のように、一乗谷に割拠し一乗谷守護のようになってしまい、越前、若狭     
は、一向一揆や守護までも国人のように跋扈していたようです。
 ちなみに若狭武田家は、甲斐の武田家とは、同族のようです。
  江戸通
 
  追伸
 佐倉の歴博では、朝倉氏の最盛期のジオラマもありましたが、見てきました?

[2004年05月14日09時03分]
お名前: コンコン
>日本書紀の伝えるところによれば、神功皇后は30歳で応神天皇を
>生んでいます。
叢文社「三国紀」によれば、26歳前後となってます。どっちにして
も高齢か・・ところで神功皇后は応神天皇だけ?仲哀天皇2年から9
年までの7年間で、子供1人だけだったのでしょうか?これ私の疑問。

>記紀の伝える話では、神功皇后は身重の体で軍勢を引き連れて新羅
>を攻めたとされています。
総大将の仲哀天皇が亡くなった場合、神功皇后の率いる軍の士気は?
軍の士気を挙げるための神功皇后のパフォーマンス入っていると思い
ませんか?

>摂政時代のものとして日本書紀の伝えるものはすべて外交記事ばか
>りです。
特別何もなければ。無理して事績を作る必要はないのでは?[2003年08月02日21時27分]
お名前: マック
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中公文庫 「日本の歴史」第1巻 神話から歴史へ
井上光貞著
謎の世紀 神功皇后と朝鮮の記録 pp344--365
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基本が大事である、、何度も何度も読むべし
なんちゅう投げ槍のRES。

[2003年07月31日21時13分]
お名前: 広嗣
 大分前にがんもさんの書き込みをきっかけに神功皇后「論争」が起きたことがありました。私は「神功皇后」は実在の人物が基になっているものの記紀が伝える「神功皇后」は、史実ではないという立場でした。今もその視点は変わっていません。日本書紀の伝える神功皇后は、史実とするにはいくつか矛盾点があります。

1. 出産

 日本書紀の伝えるところによれば、神功皇后は30歳で応神天皇を生んでいます。この年齢は日本書紀には書いてありませんが、日本書紀の伝える没年から治世期間を引くことで求められます。今でこそ50歳台で出産する女性もいますが、30歳台の出産を「高齢出産」と呼んだのは何世代も前の話ではありません。数十年前は常識でした。

 年齢だけではありません。日本書紀の伝えるところを信じる限り、この出産が初産である可能性があります。日本書紀は「〜に産ませた子」という表現で男性天皇の子供を列記しています。名前が出てくるのはここだけという人も少なくありません。ところが、「仲哀天皇記」を見ると、神宮皇后と夫の仲哀天皇の間に生まれた子の記載がありません。つまり、仲哀天皇が死ぬまで二人の間に子供はなかったことになります。本当に子供が生まれなかったのか、死産など記録に残らないほど早くに世を去ったのかは分かりません。

 記紀の伝える話では、神功皇后は身重の体で軍勢を引き連れて新羅を攻めたとされています。話の展開から見れば、既に自分が妊娠していることは認識していたはずです。戦場の経験がないので想像ではありますが、勝つと分かっていてもかなりの緊張を強いられ、母胎にも相当の影響を与えるのではないでしょうか。上記の年齢と併せて考えると、かなり無茶な話です。いくら神功皇后が勝ち気で活動的な人であってもです。

2. 治世

 隼人との戦いや新羅「平定」を終え、応神天皇を生むと、神功皇后は畿内大和に「戻ります」。この時忍熊王たちの妨害を受けます。二人の「反乱」の理由を日本書紀は転がり込むはずだった大王の権力を奪われたくなかったからだとしています。本音だったのか表向きの理由だったのかはわかりません。ただ、30歳まで皇后に子供がなかった以上、忍熊王らが大王になったつもりになっても不思議はありませんし、出産時期から考えて「嫡出」に疑念が生じたのかもしれません。

 事情はともかくとして、「反乱」を平定すると、神功皇后は摂政として君臨します。ところが、摂政時代のものとして日本書紀の伝えるものはすべて外交記事ばかりです。「反乱」事件を最後に国内の記事は一切出てきません。外交記事と言っても、実際は限られた時期の話しか乗っていません。有名な七枝刀は、この時代の記事ですが、いずれも本来は別の大王の時代の記事だったのをここに持ってきたのでしょうか。

 書くのに疲れてきたので(^_^;)、続きはRESがあったらということで(?)きょうはここまでにします。


                                  広嗣

[2003年07月31日00時47分]
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