記事タイトル:三法師のその後

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お名前: 江戸通
 土岐は今さんに、「織田信長総合辞典」によりますと
岐阜中納言(織田秀信)は、17歳(慶長4年)に
イエズス会により受洗したとい記事が
「十六、十七世紀イエズス会日本報告集」にあるそうです。
 高野山では、奥の院に墓地があるそうで、
 法名は、大全善院圭巌松貞
 ちなみに、福井にある柴田勝家の墓所には、
 法名 摧鬼院殿台岳還道
 なのだそうです。ともに、フロイスに賞賛されて
 いるらしいですね。
   江戸通

[2004年03月26日10時57分]
お名前: 人生50年
なかなか、よくわかりました。ありがとうございます。
[2004年03月10日00時50分]
お名前: ヘイ
織田 有楽斎 ( おだ うらくさい )
http://edo400.net/history/?PID=1310&CID=24
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%A5%C5%C4%CD%AD%B3%DA%BA%D8
http://www.sengoku-expo.net/text/tea/J/C17.html
http://www.geocities.jp/senryusai/senryusai.uraku.html
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/odaurakusai.html

有楽町は、織田有楽斎の屋敷跡があったことからつけられたとか。


[2004年02月25日20時14分]
お名前: 五月かな
よくわかりました。
今度は織田有楽斉について、教えてください。
[2004年02月25日02時52分]
お名前: ヘイ
いえいえ、マックさんには教えて頂くことも多いですし、
収支でいけば、マックさんのほうが黒字だと思います。

何せ、歴史SIGでは、こちとら古株というわけでもございませんしね。

恐縮至極に御座候。


[2004年02月25日00時14分]
お名前: マック
ヘイさんへ ご教授感謝。

なるほどさすがインターネットの世界は
広い。エロエロサイトばかりではなく
たまにはこういったサイトを見るのも
良いものですね。



[2004年02月24日23時20分]
お名前: ヘイ
参考になるかどうか

織田氏(弾正忠家)
http://village.infoweb.ne.jp/~isamun/monarchs/people/japan/oda01.html
より

織田信忠の項
 1580-1605 秀信
 1581-1625 秀則
 娘

信長の末裔
http://www2s.biglobe.ne.jp/~gokuh/ghp/matsuei/son_011.htm

キリシタン大名
http://www.pauline.or.jp/monogatari/monogatari13.html


[2004年02月24日22時06分]
お名前: マック
三法師こと織田秀信の母親を知っているかい。

それはね 塩川国満のむすめ、というのが通説
なのだ。むすめの名前は、もちろん不明。

秀信には同じ母で弟がいる。
弟は名前は忘れたけど、僧侶になっていて
京都で40歳ぐらいで病死している。
子供は娘がひとりで、嫡系は絶えたわけだ。

話は戻すけど塩川または塩河というと、摂津衆
のひとりで、中川清秀とか高山右近の同輩です。
城主クラス、塩川城城主か。
三木城攻めに参加したことぐらいしか、資料的
に登場しない。


[2004年02月24日02時46分]
お名前: 飾り職の秀
松本清張らしい言い方だ(笑)

[2004年02月22日00時26分]
お名前: ヘイ
本の受け売り

日本の合戦ものしり事典(奈良本辰也・主婦と生活社)

岐阜城主織田秀信は、信長の嫡孫である。家康の会津討伐の際に従軍の命を受け、七月一日を出発の日としていた。しかし平素から武備を怠っていたのですぐの間に合わず、その間に三成が尾張・美濃両国の増封約束して誘ったので、ついに八月中旬、部下六千五百人とともに西軍についた。


私説・日本合戦譚(松本清張・文春文庫)

さて、東軍の先鋒隊は、八月十四日には福島正則の持城である清洲城にことごとく集合した。つまり、ここは東西両軍の接点である木曽川を挟んで、前面には犬山、岐阜、竹鼻の諸城があり、いずれも石田方である。
岐阜城には信長の孫の秀信がいる。秀信とは、絵本太功(閤?)記などの芝居で、大徳寺の焼香争いに、秀吉によって抱きかかえられて現れる三法師君のことだ。
芝居でもジャリのくせにきらびやかな装束を着けているが、秀信は平素から華美をこのんで、なかなかのお洒落男だった。彼は家康に味方し、会津征伐に従軍のため、七月一日に出発するはずのところ、行列の華美ばかりを気にしたので、その準備に暇がかかり、期日に遅れてしまった。そこに三成が濃尾両国を増封するからと誘ったので、秀信はついに部下と共に石田方に従ったのである。関ケ原役でいろいろ武将もあったが、これくらいだらしない男もいない。


[2004年02月20日23時08分]
お名前: 天が下たる
飾り職の秀さんの言うとおり、天下は回りものと、大名も商人もお百姓さんまで、わかってたんでしょうね。それはわかりますが、なぜ三法師は、三成についたのですか?
[2004年02月19日01時53分]
お名前: マック
羽柴秀吉は、三法師をとても可愛がりましたけど
信長三男信孝は切腹させ・・・・
その後、次男、信雄を秋田県に追放(大坂に戻ってきます)
しています。

また信孝の生母を、はりつけ で殺しています。
つまり信長の側室のひとりですわね。
また信長の娘、冬姫だったかな を側室にしています。

羽柴秀吉は、しずがだけの合戦に勝利し、柴田勝家を
滅ぼしてから、、色きOがいのように 猟女
おんなに狂ってしまいます。
最高権力を確立すると、男って いやねえ。



[2004年02月18日19時10分]
お名前: マック
信長の孫、三法師について
すでに答えが出ているようですけど。
あらためて
織田秀信・・・・美濃、岐阜城城主、13万3000石。
関が原で西軍につき、高野山に追放。まもなく病死する。

秀吉は三法師・秀信を大切にしたようです。
司馬遼太郎によれば、、
信長の版図をさらに拡大し、世間からは発展させた
のであって、単純に横領という風評はなかったようです。

[2004年02月18日18時58分]
お名前: 飾り職の秀
先々週くらいの週刊誌のコラムに『よく家康が秀吉との約定を破り、

豊臣から天下を奪ったことを咎められるような事をいう人がいるが、

秀吉こそ先に、織田家安泰を約定したのに、織田家を岐阜13万石に処し、

(それでも関ヶ原では岐阜の織田家は西軍についたなんて話も含め)

秀吉自身が天下人になって・・・・家康が秀頼にした事は先に秀吉がした事』

なんて内容の記事が載ってましたね。

信長の孫の事は私はよく知りませんが、信長の後継者は秀吉にその座を

追われ、秀吉の後継者は家康に・・・・

『まあ天下は回りもの、次は徳川殿の番じゃ』と秀吉没後、堺あたりじゃ

すぐ言われてたそうな。戦国のならいですな。


[2004年02月17日01時29分]
お名前: 土岐は今
本能寺の変の後、豊臣秀吉が清洲の会議で天下取りに利用した織田信長の孫が、秀吉が天下人になった時やその後どうなったか教えてください。
[2004年02月16日23時46分]
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